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3月18日。
桜の開花も近いだろうと予感させるほどの陽気だった。
夕方五時、私たちは龍土町MAXビル一階のオープンテラスにいた。
ユニバーサルは二月いっぱいで閉店し、イタリアンカフェになっていたのだ。
「マル、ありがとう」
ナーコは開口いちばん、こう言った。
「礼を言うのは僕の方さ」
「でもマル、利奈があたしだって、最初っから気づいてたの?」
「ケーリッヒに電話したときにね」
「さすが」
ナーコはそう言ってにっこりと笑った。が、すぐに眼を伏せた。
表情は暗かった。
「でも、紗也香ちゃん・・・」
「もういいんだ。過ぎたことだ。僕だってここ数週間、何も喉が通らなかった」
紗也香は病院に担ぎ込まれた翌日に、肺炎で死んだ。
もう少し早く救出できれば、と何度も後悔した私だった。
しかし、紗也香はもういない。
それが彼女の運命だったと思うしかない。
諦めるしかないのだ。
「ナーコは必死になって、紗也香を守ってくれた。やつに気づかれないようなメッセージをつかってね。『島根の温泉』というワードは、僕がナーコのことを気に留めなかったら、永久にわからなかったことだ」
「でも、結果的には・・・」
「いいんだ、もう。僕は、僕のところに手首が送られてきたとき、僕のことを知っている人間が何か伝えたくてそうしたんだと直感した。意味不明なプラチナの指輪、住所は桜丘町までしかわからない、電話番号は一つだけ間違っている、そのくせ、名前はしっかり知っている。そんな人物は、ナーコぐらいしか思い当たらない」
「たまプラのマンションを突き止められたとき、あいつ、必死になって隠れ家を捜してたの。あそこはヨネのお母さんのところに行く途中で、使われてない工場だっていうのを知ってた。だから、私が薦めたの。もし、マルがあたしを捜していたら、きっと気づいてくれると思って、あの看板のことをメールに書いた。あいにく、あいつは『まつえ』というのが島根県にある市だっていうことを知らなかった」
「僕だって、ぎりぎりになって気づいたんだ」
と言いながら、私は三村ヨネの母はずいぶんと嘘つきなんだな、と思った。
あの老婆は、あくまでもナーコの存在を否定していた。
「あたし、パソコンは与えられていたんだけど、中身はすべてチェックされていた。最初はマルとも偶然知り合ったふりをして、ただのメル友だって言って、やりとりしてたのよ。子供の手首を柳沢に送れって言われたとき、マル宛てに送れば、なんとかしてくれるって思った。でも、相手にそれが届いてないってことで、あいつにマルのことを知られてしまった。もしかしたら、逃げるチャンスだって、いくらでもあったと思うの。でも、クスリが邪魔してね、どうしようもなかった。怖くなって、怖くなって、逃げ出すと、あの人が追っかけて来るようで」
「もういい。なにも言うな」
「ごめんなさい」
「あっ、これ、ずっと返そうと思ってたんだ」
私はそう言って、ピンクのシステム手帳をナーコの前に置いた。
彼女は俯き、泣いたままだった。
「今度は執行猶予ってわけにはいかないな」
私は静かに言った。
「刑務所にパソコンがあれば、ずっとメールが続けられるのに・・・」
「僕らはもうメル友ではない。あれは最後のEメール。メール交換はもう終わったんだ」
「あのメール、高岡の携帯をこっそり拝借して、あたしが送ったの。それまではあたしが書いたパソコンを、あいつがどっかに持ってって送ってた。居場所を混乱させるんだって」
「その最後のEメールが、僕をあそこに導いたのさ」
「でも、マル。刑務所から出てからでも、あたしと付き合ってくれるの?」
「もちろんさ」
「あの店にいるよね。ずっと」
「いや、『ヴォーグ』は辞めた。渋谷の部屋も引き払ったし」
「どうするの?これから」
「一つ、やり残したことがあってね。それを終えたら、また東京に戻ってくるさ」
「遠くに行くの?」
「そんなところかな」
「あたしが出所するまでに、戻ってるかなぁ」
「そうしたいね」
お互い笑った。
「じゃあ、あたし行くね」
「ああ、大野警部によろしくな」
「うん、わかった」
ナーコはそう言って立ち上がると、デートに向かう少女のような足取りで歩いて行った。
ナーコが向かう先には、赤い回転灯をのせた黒のセドリックが停まっていた。
その横に、大野と見知らぬ刑事が立っている。
大野はナーコを後部座席に乗せると、私の方に向かって歩いてきた。
濃いグレーの地味なスーツを着ている。
ネクタイはしていなかった。
「丸岡、彼女は本当に自首してきたんだ」
「でしょ。だから、言ったじゃん」
「でも、おまえも人が悪いな。メールの相手が佐伯奈々子なんだったら、なんで最初っからそう言わんのだ」
「それを高岡に知られることが、もっとも怖かったんです。ナーコは高岡に気づかれないように、必死でメールをくれた。心の中では、僕にSOSを送りながらね」
「おまえは今、どこにいるんだ?渋谷の部屋は引き払ったそうじゃないか」
「その辺の安いビジネスホテルに泊まってますよ」
「これから、どうする気だ?」
「紗也香の四十九日が済んだら、考えます」
「東京にいるんだろ?」
「いや、それもわかりません」
「まあ、しないとは思うが、高岡に覚醒剤を卸してた組織を追おうなんて考えるなよ。連中は中国のマフィアだ。危険すぎる」
私は何も返さず、ナーコの乗っている車に眼をやった。
停車したままだった。
大野を待っているのだろう。
「おい、丸岡。わかったな」
「それも、四十九日が済んでから考えます」
「おまえ、わしのところに来ないか?」
「えっ、大野さんのところ?警察に、ですか?」
「来年の春ぐらいに、移動があるかもしれん。誰か部下を一人選べと言われてるんだ」
「移動?大野さんが?どこに?」
「まだ、わからん。管内だから、東京には違いない」
「大野さんの部下じゃ、自由にできないしなぁ」
私は笑いながら言った。
「とにかく、考えておいてくれ」
「はいはい」
「それじゃあな。必ず、連絡するんだぞ」
大野は踵を返しながら右手を上げ、車のところまで歩いて行った。
ドアを開ける。
「大野さん」
私は言った。
大野は動作を止めて振り向いた。
「ナーコに逢わせてくれて、ありがとう」
私は言った。
「丸岡の命令じゃ、わしも聞かんわけにはいかんしな」
大野はにやりと笑うと、ナーコと同じ後部座席に乗り込んでいった。
私は走り出した車が見えなくなるまで見送った。
そして、ゆっくりと六本木の交差点に向かって歩き出す。
穏やかな春の夕暮れだった。 (完)