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私はやるべきことはすべてやった、と思っている。
碓井と私宛ての手首が出された、緑区美しが丘のコンビニエンスストアにも行ってみた。
有限会社ケーリッヒの電話番号を教えてくれた、シャールック探偵社へも再度、行った。
中野の哲学堂公園周辺での訊込みもおこなった。
しかし、どれもこれも、紗也香に関する手がかりのようなものは見つからなかった。
それはそうだ。
彼女が誘拐されたのは十中八九、私が事件に首を突っ込んだことで起きた事件なのだろうから。
それと、私をもっとも不安にさせているのが、犯人からの要求が五日経った今もまったくない、ということだった。
『金を出せ。娘の命と引き換えだ』と言ってくれた方がよっぽど楽だ。
私は碓井や柳沢の娘らと同様、手首が妻のもとへ届くのを恐れていた。
できれば、今日の日付がこのまま止まってほしい。
そう、願うほどだった。
私はこの日、三度目のシャールック探偵社を訪れた帰り――もっとも、当人は『何も知らない』一点張りだったが――新宿駅で山手線を降り、マイシティの地下を巡って中央口のコインロッカーの前まで来ていた。
二十年以上も前から、私はここに、若者をターゲットにしてシンナーを売り捌く男たちがいることを知っていた。
私はいかにもそれを欲しがっているかのような顔をして、ロッカーの前に立った。
10分ほどして私に近づいて来たのは、昭和末期に見られたパンチパーマ頭の、二十代前半の男だった。
私の方を見ながら、口のところに左の拳をあてがえている。
『シンナーはいらないか?』という合図だ。
私は笑みを浮かべた。
男は今度は、指を一本出した。
たぶん、ドリンク剤入りの小瓶で『一本でいいのか?』というサインだろう。
私は首を横に振った。
男は二本の指を出してくる。
私はたまらず口を開いた。
「僕はツンボじゃない。声を出してしゃべってくんないかな」
「アンパン、欲しいんだろ?」
アクセントに、訛りがあった。
おそらく北関東、もしくは福島あたりの出身だろう。
「いや、僕が欲しいのはエスだ」
小声で言った。
「ここには、シャブを扱ってるやつはいねぇよ。サツの目がうるさいからよぅ」
「どこへ行けば買える?」
「タダで教えるわけにはいかねぇな」
私は自分の財布から、千円札を二枚取り出した。
男はそれを奪うようにして鷲づかみにすると、趣味の悪いブルゾンのポケットの中に押し込んだ。
男は私の耳元に顔を近づけてきた。
「大ガードの手前に、映画の看板がいっぱい並んでるところがあんだろ?そん中の高倉健が描いてあるやつの下に立っててみな。誰かが声かけてくっから」
「売人の中で、殺しも請け負うってやつはいないかな?」
「そんなこと知らねぇよ。声かけてきたやつに訊いてみればよかんべ」
「ありがとう」
私はそう言って右手を上げ、駅から外へ出る階段を上ると、マイシティに沿って大ガードの方へ歩いて行った。
現在公開中の看板、その中でも『どっとや』という映画に、高倉健は出演しているようだった。
看板には、船長の格好をした彼の姿が鮮やかに描かれている。
私はその下に何食わぬ顔をして立った。
売人の言ったことは正しかった。
私がここへ来て5分もしないうちに、茶髪の背の高い男が話しかけてきた。
「いくら欲しいんだい?」
「百万円出せる」
「マジかよ?じゃあ金、見せてくれよ」
「ここにはない。あるところに置いてあるんだ」
「おいおい、その手は食わねぇぜ。ブツだけ貰って、おさらばって寸法だろ?ニイさんみてぇな詐欺師を五万と見てるんだぜ、俺は」
「信用できないんだったら、この話はなしだ」
「後払いって言うんなら、クレジットカードとか免許証を預けてもらうぜ。逃げられないようにな」
「逃げたらどうなる?」
「あのな、逃げられると思うわけ?身分証がありゃあ、どこまでだって追っかけられんだぜ」
「おまえが、か?」
「俺らのバックが、だよ。俺らの後ろ盾には、義友会出身の人だっているんだぜ」
「なるほど、暴力団か」
「とにかく、どうすんだよ。買うのか買わねぇのか」
「後払いなら、オーケイだ」
「ニイさんには、カアちゃんやガキはいるかい?」
私は一瞬、言葉につまった。
「いや、今はいない」
「独りもんかい?」
「まあな」
「だったら、尚更無理だ」
「それはもしかしたら、逃げたときの担保代わりとして、妻子が必要ってことなのかな?」
「当然だろ。ガキをシバいとけば、大抵は逃げられねぇもんさ」
「おまえは義友会に雇われて、やってんのか?」
「おいおい、おめぇ、サツじゃねぇだろうな。まあ、まだ取引してるわけじゃねぇから、パクることはできねぇぜ」
「覚醒剤所持で、逮捕はできる。もっとも、僕は警察でも麻取でもないけどね」
私が言うと、男は大きな声を出して笑った。
「俺が今、シャブを持ってると思うかい?」
「だったらお相子だ。こっちも金は別の場所にあるんだ」
「だから、どうするんだよ。取引すんのかしねぇのか、さっさと決めろ!」
男の言いぶりは、はやくシャブを捌いて金を手に入れたい、だった。
「わかった。じゃあ、すぐに済まそう。金は車の中にあるんだ。付いてきてくれ」
私は言って、踵を返した。
私は大ガードをくぐり、先日火事になったばかりの思い出横丁の中を抜け、西口のエース街から地下2階の駐車場に向かって歩いて行った。
男は何度か話しかけてきたが、私は無視した。
私は駐車場のいちばん暗いところまで行くと、人気のないことを確認し、男を後ろから羽交い締めにした。
「おい、おまえのボスは誰だ?」
私は訊いた。
が、男は声が出せないでいる。
今度はコートのポケットからペンを取り出し、羽交い締めにした手を緩めながら、ペン先を男の背中に突き当てた。
「動くなよ。動くと撃つぞ。ここは銃声ぐらいで、人が駆けつけるってことはないんだ。バックファイアーにしか聞こえないからな。さあ、ぁ言え、ボスは誰だ?」
「高岡さんっスよ」
男は声を震わせた。
「高岡だと!どこにいる?そいつは」
「知らないっス」
「じゃあ、どうやって連絡をとってるんだ?」
「こっちの携帯に電話があるんスよ。公衆電話からだから、向こうの所在はわかんないんです」
「どんなやつなんだ?」
「義友会にいた人です。でも、その頃は安岡って呼ばれてたらしいんで、高岡も本名かはわかんないっスよ」
「どこに住んでいるやつだ?」
「横浜っス」
「横浜のどこ?」
「みどり」
「緑区か?」
「はい」
「そいつと逢うには、どうすればいい?僕は高岡に用があるんだ」
「わかんないっスよ。高岡さんはしょっ中、居場所を変えてるみたいですし」
「女は?女なら、いるだろ?」
「ええ、風俗で働いている女を連れてました。先月逢ったときは」
「どこの風俗だ?名前は」
「歌舞伎町のソープには違いないんですけど、店は聞いてないです」
「女の名前は?」
「ナオミ…。いや、ナツミだったかな…。でも、高岡さんの女かどうかはわかんないっスよ。連れてたってだけっスから。どうせ女なんかシャブ漬けにして、飽きたら捨てるような人なんですから」
「いいか、今しゃべったことが嘘だったら即、ブタ箱入りだからな」
「やっぱ、サツの人でしたか…」
「もし、高岡に逢うことがあったら言っとけ。おまえだけは許さん、とな」
「刑事さん、お名前は?」
「碓井だ。高岡に娘を殺された碓井な」
「はぁ…」
「ところで最近、高岡に頼まれて、殺しをやったようなやつを聞いたことはないか?」
「殺し?」
「中野の哲学堂で、男が殺された。その男は、高岡の命を狙っていたやつだ。おそらく、返り討ちだろうけど」
「それ殺ったのって、きっと高岡さんっスよ。あの人、取引するときはいつも哲学堂なんです」
「なるほどな」
「俺、もう行ってもいいっスか?」
「ああ」
すばやく私は、男の背中に当てていたペンをポケットの中にしまった。
私は薄暗い駐車場の中で、必死に逃げて行く男の背中をいつまでも眼で追っていた。