第四章 1
聖ジュリアンナ病院は川崎市の北部にあった。
東名高速川崎インターから新百合丘まで行く街道沿いの丘の上にあり、何キロ先からでもわかるように、大きな看板がこれみよがしに掲げられてある。
どこも悪くない人でも『今度病気になったら、行ってみよう』と思わせる雰囲気があった。
私はここが、東京から行くには電車とバスを乗り継がなくてはならず、やたら交通の便が悪いことを知っていた。
紗也香がまだ二歳のときだった。
妻が生牡蠣を食べて中った。
深夜になって腹痛を訴え、何度も嘔吐した。
私は慌てて救急車を呼んだ。
担ぎ込まれたのが、この病院だった。
私は今、いくつもの不安からは解き放たれたものの、未だその出来事が信じられず、この聖ジュリアンナ病院の病棟に向かって車を走らせていた。
年が明けた元旦の朝、私のところに電話をしてきたのは大野だった。
私は彼の第一声を、とても嫌なものと予想した。
僅かな望み。
そう、紗也香の安否。
簡単に人を殺してしまうミステリーならば、こういうパターンだと、やがて娘の屍体が発見される。
主人公は復讐の念に燃え、躍起になって犯人を捜し出す。
ラストシーンは、犯人対主人公の壮絶な闘いだ。
しかしそうなる前に、もし娘が無事保護されるというようなことがあれば、ストーリーは一気にしらけてしまう。
そうでなければ、ハッピーエンドということで、話を終結せざるを得ない。
ところが、大野の口からは『紗也香ちゃんが無事保護されたよ』といった、私にとっては信じられない報告だった。
ただそれも、未だに半信半疑ではある。
紗也香は昨夜、東名川崎インターそばの路上に立っているところを、通りかかったタクシー運転手に保護された。
極寒の中、Tシャツ姿で立っていたのを不審に思い、運ちゃんが声をかけたのだ。
紗也香は多少の疲労こそ隠せないものの、これといった怪我もなく、無事この病院に入院しているらしい。
私はこの病院の交通の便の悪さを知って、わざわざホステスの麻美から車を借りて、ここへ来たのだった。
病院の駐車場に車を入れ、入院病棟の受付で場所を尋ねると、私は一目散に彼女のいる五階の533号室へと走った。
慌てる必要はないのだろう。
大野は『無事』と言ったのだ。
余裕の顔で、お見舞いの花束の一つでも持って、笑顔を偽りながら行くべきだったのかもしれない。
いかんせん、彼女と逢うのは五年ぶりのことなのだ。
ドアをノックして開けると妻、いや、前妻がベッドサイドに置かれた椅子から立ち上がり、無言で私を見つめてきた。
目に涙は溜めていなかった。
私はすかさず、ベッドに横たわっている紗也香に目を向けた。
彼女は起き上がって、私を見た。
「紗也香…」
私は声を漏らした。
「パパ?」
「ああ、そうだ。この人が再婚すれば、そうではなくなるんだろうけど」
「わたしは大丈夫よ。何にもされなかったし」
「見ればわかるさ」
私はベッドサイドまで歩み寄り、妻を押しのけ、それまで彼女が座っていた丸椅子に腰掛けた。
彼女は私の後ろで、何も言わずに立っていた。
紗也香は五才のときよりも、ほっそりした顔立ちになっていた。
もっとも、年齢を重ねれば誰でもそうなるだろうし、監禁されていただろうから、当たり前といえば当たり前のことだ。
彼女は銀縁の眼鏡をしていた。
私は妻の視力が悪かったことを思い出した。
私は両手を伸ばし、紗也香の左手に触れた。
冷たくはなかった。
「パパに、なぜこうなったか教えてほしい」
私が言うと、彼女は目を伏せた。
「なぜってあなた、わかりきったことでしょう。あなたが変な事件に首を突っ込むからじゃないですか」
妻だった。
が、私は振り返らなかった。
『すまん』とも言わなかった。
「もう離婚したんですから、あなたが何をしようと構わないわ。でも、この子や私を巻き込むのはやめてください」
「ママ。パパをいじめないで。これも、わたしがパパに逢いたいって、いつも言ってたのが原因なんだから」
「なぜ?」
私は妻を無視し、紗也香に向かって訊いた。
「パパに逢わしてくれるって言ったの。東京まで、車で連れてってくれるって」
「誰が?」
「男の人」
「どんな?」
「江口洋介みたいな人」
「紗也香。僕はその、江口洋介がどんな人なのか知らない。テレビに出てる人なのか?」
「そう」
「じゃあ、その江口は、君をどこへ連れて行ったんだい?」
「途中で目隠しされたの。車は三十分も走らなかったわ。だから、東京へは行ってないと思う」
「橋は渡ったか?大きな橋だ」
「わかんない…」
「連れて行かれたところは?」
「どっかの三階だと思う。わたし上ってるときに、階段を数えてたの。最初、十二段上って右に反転して、九段上って、たぶん、そこが二階。それからまた十二段上って右に反転して、九段上った。そしてすぐのドアの部屋だった」
「部屋の中でもずっと目隠しだったのか?」
彼女は首を横に振った。
「テレビとベッドのある部屋だった。カギがかかっていて」
「江口とずっと一緒か?」
「違う。あの人はわたしの目隠しを取って、すぐに出て行ったわ」
「どこに行ったんだろ?」
「わかんない。昨日まで、ぜんぜん来なかったんだよ」
「じゃあ、食事なんかはどうしてたんだ?紗也香は」
「隣の部屋の女の人が運んでくれるの。朝と夜の二回だけだけどね。パンと牛乳ばっかし。一回だけ、ピザのときがあったな。あれきっと、ピザーロよ。紗也香前に、食べたことあるもの」
「女は江口の仲間か?」
「うん。でも、優しい人よ」
「女の顔は?」
彼女はまたも首を横に振った。
「サングラスとマスクをしてるんだもの。それに、テリー伊藤みたいな帽子を被ってるし」
「テリー伊藤というのは、どんな帽子を被るんだ?」
私は振り返って、妻に訊いた。
「カーボーイハットでしょ、たぶん」
妻の顔はにやけていた。
私は気分が悪かった。
「その女というのは、何回も紗也香の前に現われたのか?」
「パンを持ってきてくれるときだけね。あと、わたしが喉が渇いたときなんかは電話で呼ぶと、すぐに来てくれたわ」
「その部屋には電話があるのか?」
「てゆうか、カラオケにあるみたいなの。番号がついてないの、それ」
「それはインターホンというんだ」
「そうそう、インターホン、それ」
「でも、紗也香はどうやってそこから脱出したんだ?」
「夕べね、江口っちが来て、また目隠しされて車に乗っけられたの。そのときは女の人も一緒だった。十分ぐらい走って、車が停まって、江口っちが女の人に『ちょっと待ってろ』って言って、車を降りたの。降りてちょっとして、女の人が目隠しを取ってくれたんだ。そんで『逃げろ』って言うのね。『とにかく遠くまで走れ』って。わたし、真っ暗なところを必死に走ったよ。どこを走ったかなんて憶えてない」
「なぜ、逃がしたんだろ?」
「『このままだと殺されてしまうから』って言ってた。女の人」
「男は追っかけてこなかったか?」
「江口っちはファミマで電話してたの。逃げるところは見られなかったよ。でもあの女の人、怒られたね、きっと」
「連中と一緒だったときに、何か気づいたことはなかったか?例えば二人が、呼び合っていた名前とか」
「わかんない」
「そうか…」
「もういいでしょ」
妻だった。
「あなたはお見舞いに来たんじゃなくて、事情聴取に来たんだわ。ここに来る刑事と一緒よ」
私は妻を無視してゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、僕はもう帰るから。はやく元気になるんだ」
私は紗也香の肩を軽く叩いた。
そして妻には何も告げず、ドア口へ向かった。
「パパ…」
私がドアノブに手をかけたところで聞こえてきた。
私は振り返った。
「クリスマスプレゼント、いつもありがとう」
「サンタさんに、そう伝えとくよ」
私は右手を上げてそう答え、ゆっくりと病室を出た。
逢うことができたのは、こんな事件があったから。
こんなことが二度とあってはいけない。
だからもう逢うことはない。
逢ってはいけないのだ。
私は複雑な想いのまま、病院をあとにした。