私は元のバーテンダーに戻っていた。
ボーイから告げられた注文に文句の一つも言わず、ときたま目の前に座るもの好きな客から同意を求められ、入ったばっかしのホステスから『お水ちょうだい』などと小生意気な口を利かれ、それでも私は普通に仕事をしていた。

決して、事件解決を諦めたわけではない。
考えることは山ほどあった。
しかし、行き着くところはいつも覚醒剤。
そして、高岡という人物。

今の状況下で高岡を見つけ出すには、やつに覚醒剤を預けている裏の組織と接触する必要があった。
そうなると、どうしても暴力団とのネットワークが必要となってくる。

そんなことは警察に任せればよいのだ。
彼らの得意科目なのだから。
今の私には重荷すぎる。

今夜、私の前には、大野警部が座っていた。
今年に入って『ヴォーグ』へ来るのは初めてのことだった。

「新年の挨拶は、したっけかな?」
大野は手にしたケントマイルドを口にくわえながら訊いてきた。

「してないでしょう。この前、大野さんがうちへ来たときは挨拶なしだったし」

大野は手元のライターでカシャリと火をつけ、煙を吐き出しながら声を出して笑った。

「それはそうと、高岡の件はどうなったんです?」
私は訊いた。

「それだがな、やはりおまえが言ってたように、義友会系の千成組にいた安岡というやつが、その男らしい」

「どんな男なんです?」

「元陸上自衛隊。やさ男だが、特殊訓練を受けている武闘派だ。組を破門になったのも、同系の駒風組の幹部を殺ったから、という噂だ」

「じゃあ、殺人の前科ありってことですね」

「いや、あくまでも噂なんだ。駒風組の幹部殺害の件は、義友会のチンピラが自首してきてカタがついている。どうせ替え玉だろうがな」

「潜伏場所は?」

「皆目見当がつかん。もともと、安岡という男は、北海道で娼婦だった女とロシア人船乗りとのあいだにできた子なんだ。父親が誰かもわかっていない。それに、母親はやつが自衛隊に入隊した年に癌で亡くなっていてる」

「身寄りなし、ですか…」

「ああ。自衛隊は二年ほどで辞め、東京でふらふらしていたところを義友会に拾われた。今年で二十七才だ」

「写真はありますか?」

「あることはあるが、今は持ってきていない」

「江口洋介に似ていました?」

「江口?誰だ、それは」

「いや、何でもありません」

「おいおい、誰なんだ、江口って。おまえ、何か隠してるな…」

「署に戻って、若い婦人警官にでも訊いてみてください。誰でも知ってるから」
私が言うと、大野は手帳を取り出し、それに『エグチヨウスケ(婦警に聞く)』と記した。

「ところで、携帯の番号はどうでした?」

「ああ。あれは所沢に住む大学生のものだったよ」

「何で、また?」

「新宿で見知らぬ男から、十万円で携帯電話を譲ってくれと頼まれたらしい」

「十万円?だって、通話料がそれより嵩んだら損じゃないですか。なぜ、オーケイするんです?」

「携帯の使用料というのは常時、調べられるんだよ。それで、料金が何万にもなっているようだったら、電話会社に言って、使用禁止にしてもらえばいいわけだ。お利口さんだよ、買った男も売った学生も。両方ともな」

「なるほど。その手を使えば、携帯電話ならいくつでも持てる」

「そうさ。電話番号から足などつかん」

「中野のシャールック探偵社はどうでした?見るからに怪しかったでしょ?」

「あの探偵は元巡査なんだ。小悪党ではあるが、大それたことのできるようなやつではない」

「でも、やつは高岡と接触がある」

「電話番号を持って売り込みに来たのは、高岡ではない。雇われたと思われるチンピラだ」

「僕が調べたところによると、高岡はかなりの量の覚醒剤を売り捌いていた。小売りして小銭を稼ぐ、チンピラたち相手にね」

「そのようだな。わしらが覚醒剤ルートを捜査するとき、その辺で小売りしている連中をむやみに逮捕はしない。連中を使って、その元を調べるのが目的なんだ。高岡はそれを知ってるんだ。だから、小売りの売人たちにも正体を明かさない。頭の切れるやつだよ」

「高岡だって、どこからか仕入れているわけです。やつの後ろに、もっと大きな組織があるでしょう」

「あるとしたら、外国人マフィアだろうな」

「中国系…」

「おそらく。最近は巧妙になってきて、北朝鮮の漁船を使って密輸される」

「行き着くところは、そこになりますか…」

「とにかく高岡は今、重要参考人として手配中だ。近々、マスコミでも顔写真が公表されるだろう」

「僕はこれ以上、子供が誘拐されて殺されるという事件を見たくない。このあいだ、紗也香の顔を見て、つくづく思った」

大野は口を噤んだ。

ホールの方から、スティービー・ワンダーの【For Your Love】が流れてきた。
週に一度来る、音大の学生の弾き語りだった。

「ところで大野さん。メールアドレスで、その人の住所や氏名ってわかります?」

「メールアドレスって、インターネットのことか?」

「ええ」

「それは当然だろ。そんなこともわからんのじゃ、ネット犯罪には対応できん」

「一般の人でも、それを知ることは可能でしょうか?」

「そのプロバイダーによるだろうな。ただ、しっかりしたところだと、個人情報は教えてくれんぞ。売ったりしてる悪徳業者もあるようだが」

「そうですか…」

「それがどうかしたか?怪しいメールアドレスがあるんなら、わしが調べてやるぞ」

「いや、いいんです。事件とは関係のないことですから」

「いいか、丸岡。これはいつもいつも言っていることだが、わしに隠し事をして、単独で事件を解決をしようなんて考えは捨てろよ。おまえは今まで、わしにたくさんの隠し事をしながら、難事件を解決してきた。しかしな、弊害というのもあるんだ。おまえがもっと早く話していれば、余計な被害者を出すこともなかったというようなことがな。今回の紗也香ちゃんの件でも、おまえが首を突っ込んでいなければ、起こらなかったことだ」

「大野さん。僕は紗也香が誘拐されてから、いろいろと考えてみたんです。確かに、僕が事件に首を突っ込んだかもしれません。でも、それは紗也香が誘拐されてからのことなんです」

「なんだと?」

「碓井がこの店の僕を訪ねて来た。おそらく、インターネットで僕のホームページを見たからでしょう。その後、彼は殺された。僕はそのことを知るために哲学堂へ行った。野方署に潜り込み、その事実を確認した。それだけなんです。それだけなのに、柳沢という人の子供の手が送られてきたり、紗也香が誘拐されたりしたんです。変だと思いません?」

「おまえ、碓井の近辺を探ろうとして、あっちこっちで訊き回ったんじゃないのか?」

「違います。僕がこの件で動くようになったのは、紗也香が誘拐されてからです」

「じゃあ、おまえは紗也香ちゃんが誘拐されたのは、本当に金銭目的の、偶然にも自分の娘だっただけ、と考えているわけか?」

「いや、それは僕にもわからないんです。犯人は紗也香を『父親に逢わしてやる』と言って誘い出した。それが犯人は僕のことを知っていたからだったのか、単なる偶然だったのか」

「これは、おまえの近辺も探る必要があるな」

「そうでなくとも、僕のことは尾行するんでしょ?このあいだ、病院の帰りもずっと尾けて来ましたよね」

「おまえが車に乗っているのを不審に思ったもんでな。千葉の不動産屋の車だったな。知合いか?」

「ええ、一度だけ一緒に飲みました。ユニバーサル映画の好きな、援交オヤジです」

「まぁいい。とにかく、自分の近辺だけは充分注意しろ。紗也香ちゃんのいる病院は神奈川県警が二十四時間体制で警護しているが、わしらはおまえを、というわけにはいかんのだから」

「わかりました、大野警部」
私が大きな声で『警部』と口にすると、大野はびっくりしたように辺りを窺った。

キャッシャーにいた店長代理が、ちらりとこちらを見たような気がした。

3へ