4
市ヶ谷の邸宅街の中に、ナーコの家はあった。
敷地面積だけでも100坪は優に超えるほどの豪邸で、庭などは南国風の樹木が生い茂るジャングルのような屋敷だった。
それというのも、彼女の祖父があの北武グループの創始者であり、父親が今の会長、佐伯大介なのだ。
ただ佐伯氏は昨秋、病床の末に亡くなっている。
父を失い、実の娘であるナーコは莫大な遺産を相続した。
しかし、彼女はそれを放棄した。
彼女の犯した罪から言えば、当然のことなのかもしれない。
私はあの事件で、ナーコと絶交する形になった。
物欲すべての彼女の虚言が許せなかったのだ。
彼女は今、執行猶予中の身の上で、市ヶ谷の邸宅の中でひっそりと暮らしているはずだった。が、私が訪ねたとき、そこは赤土が剥き出しの広大な更地に変わっていた。
建て替えのための工事か、別のものが建つのか、私には判断がつかなかった。
汚れたシートで囲まれた敷地の中には、黄色のシャベル車と数名の男たちが窺えた。
私は路上を歩いている、緑色のヘルメットを被った男に歩み寄った。
「ここには何が建つのかな?」
私は男のそば二メートルぐらいに近づいて訊いた。
彼は私の顔を不思議そうな顔をして見つめ、不機嫌そうな顔をして口を開いた。
「教会だってよ」
「どんな?」
「知らなねえべよ。そこに、書いてあるべさ」
男はそう言って、路上に面したところへ立ててある白いボードを指差した。
"建築工事のお知らせ"と書かれた看板だった。
建築主の欄には『宗教法人・聖母マリアンヌ赤十字連盟』、建築物には『(仮称)マリアンヌ市ヶ谷教会』と書かれてある。
鉄筋二階建ての教会が建つのだ。
私は即座に外堀通りまで下りて行って、煙草屋の前の公衆電話から、大野警部に電話を入れた。
「もしもし、僕です。丸岡です」
「なんだ?何かあったか?」
大野の声は些か緊張ぎみだった。
それもそうだろう。私が彼に電話するときは大抵が事件解決のめどがついたとき、もしくは何か重大な事件があったときだけだ。
「今のナーコの住まいを教えて欲しいんです」
「ナーコって、佐伯奈々子のことか?」
「ええ。逢いたくなって市ヶ谷まで来たんだけど、家がないんです。どうやらここには、マリア様が住むらしい」
「ちょっと待ってろ」
数分経ったのち、咳払いをした大野の声が聞こえてきた。
「えーと…、去年の十二月から、町田の方に引っ越してるな。佐伯家の家政婦だった女の実家だ。住所を言うぞ」
「はい、お願いします」
私はペンと手帳を取り出した。
「町田市鶴川7の2の2。小田急線だな」
「ありがとうございます」
「それで佐伯奈々子がどうかしたのか?まさか、今回の事件に関係があるとか」
「いや、久しぶりに逢いたくなったんです。ダイアリーも返さなくちゃいけないし」
「いいか、丸岡。くれぐれも言っとくが、佐伯奈々子は執行猶予中の身の上だ。連れ回したり、事件に関わるようなことには首を突っ込ませんようにな」
「わかってます。今回の事件こそ、大野さんたちに任した方がいいと思ってるんです。大きな組織が後ろにいるんだとしたらね」
「おい、それは聞き捨てならんな。『だとしたら』というのは、そうでないという可能性もあるってことか?」
「いや、間違いなくいるでしょう。それじゃあ、急ぎますんで」
大野との会話が長引くのを嫌い、彼の言葉を待たずして電話を切った。
私はそこから総武線で新宿まで行き、小田急線に乗り換え、町田の鶴川へ向かった。
佐伯邸で家政婦をしていた女は三村ヨネといった。
彼女は東京都町田市の生まれで、十八歳のときに父親の暴力がもとで家を飛び出し、札幌に移り住んだ。
しかし、当時北海道に来ていた北武グループの創始者――佐伯氏と知り合って東京に呼び戻され、佐伯邸の家政婦として働くことになった。
彼女はナーコの父、佐伯大介氏の育ての親でもある。
要するに、三代に渡って佐伯家を見てきた人物というわけだ。
三村ヨネは現在、服役中だ。
その事件に関わっていたのがナーコこと、佐伯奈々子だった。
ナーコは大介氏の遺産のほとんどを相続し、しかし、そのほとんどをどこかしらに寄付した。
彼女は今、三村ヨネの実家にいるという。
私は小田急線を鶴川駅で降りると、鶴川街道を稲城の方角に向かって歩いて行った。
一月の終わりとはいえ、穏やかな天気だった。
枯れた木々が寒々しく見えるものの、青天から降り注ぐ眩しい陽射しと、民家の庭先に咲いた寒椿が春の訪れを感じさせてくれた。
三村ヨネの生家は鶴川団地まで行く途中の、小高くなった丘の上にあった。
まさに旧家で、臙脂色のトタン屋根と色褪せた外壁から、決して裕福な住まいには見られなかった。
玄関のところに植えられた梅の木のつぼみが、今にも花を咲かせようとしている。
庭先には洗濯物が干してあった。
物干し竿に白のシーツが二枚、ハンガーには、高齢の女性が着るようなラクダ色のシャツが吊るされていた。
私は玄関まで歩み寄ると、どこの家にもあるような四角形のインターホンを押した。
二度三度鳴らしてしばらく待つと、玄関のサッシ戸がスルスルっと開いた。
顔を出したのは七十歳ぐらいの――いや、八十はいってるかもしれない――老婆だった。
おそらく、三村ヨネの母親だろう。
「こんにちわ。ヨネさんのお宅ですか?」
私が訊くと、老婆は『はぁ?』とだけ答えた。
「ヨネさんのお母さんですか?」
「そうです」
「佐伯奈々子さんを知ってますか?」
老婆は口を噤んだ。
何かを隠している様子だった。
「ばあちゃん。奈々子さんはここにいるのかい?」
私は大きな声を出した。
老婆はこっくりと頷いた。
「じゃあ、逢わしてもらえないかな」
今度は、恨めしい眼をして見返してきた。
「僕は怪しいものじゃないんだ。奈々子さんの古くからの友人でね」
「奈々子さんは、ここにはおらんです」
「どうして?」
「出て行っただよ。もう、三つきも帰って来ねえ」
「どこに行ったんだろ?」
「わからねえ。仕事行くって、出て行ったんだで」
「仕事?どこへ仕事に行くって言ってた?」
「わかんねえ。新宿じゃねえか。あの女、ズベ公だって話じゃねえの。うちのヨネをそそのかして」
「ばあちゃん、本当なんだね?」
「じゃあ、家捜しでも何でも、すればよかんべさ。ほら」
老婆は私を家の中に入るように言った。
「いや、結構」
私はそう言いながら、二階にある部屋の窓を見上げた。
カーテンが閉めてあるようで、中の様子は窺えなかった。
ただ、私はその二階の部屋にナーコがいるとは思っていなかった。
なんせ、老婆が私にナーコを隠す理由がない。
あるとしたら、ナーコが私に逢いたくないという理由だけだ。
「ばあちゃん、すまなかったね。もう僕は帰るよ。もし奈々子さんが帰って来たら、これを渡して欲しいんだ」
私はバッグの中から、ピンク色のシステム手帳を取り出した。
ナーコの日記帳だった。
老婆は恐る恐る、それを受け取った。
「僕は丸岡っていうんだ。くれぐれも、よろしくね」
私は老婆に顔を近づけてそう言うと、踵を返して鶴川の駅に向かう坂道をゆっくりと下りて行った。
その途中、もう一度振り返ったが、二階のカーテンが揺れることはなかった。