大野警部が『ヴォーグ』を訪れたのは、それから三日後のことだった。
彼は高岡という名の男――安岡の行方はおろか、やつが捌いている覚醒剤ルートの洗い出しにも何の発展がないことを私に告げた。

大野はカウンターの中央に座り、ため息ばかりをついていた。
思いついたように水割り入りのグラスを口に運び、煙草に火を点けてはすぐに揉み消し、一分も経たないうちに新しい煙草をくわえ、それも短くなるまでは吸わなかった。

私は大野の落ち着かない心境を悟っていた。
私に何かを求めているわけではない。
グチをこぼせる相手が欲しいのだ。

「大野さん」
私は言った。

彼は酔っ払いが道行く人を睨み付けるような目つきで、私を見返してきた。

「ちょっと、調べてもらいたいことがあるんです」

「なんだ?」

私は手元のバッグの中から手帳を取り出し、それに記してあったメールアドレスを一枚のコースターに書き殴った。

「これはEメールだな」
大野はコースターを手に取り、"rina"で始まるメールアドレスに目を凝らした。

「はい。僕が去年の終わり頃からメール交換をしている女性です。その子の住所と電話番号を調べて欲しいんです。できれば、フルネームも」

「事件と関係があるのか?」

「ないと言ったら、調べられないでしょう?あるということにして」

「違う。わしが訊いているのは、この女が一連の事件と関係があるのか、ということだ」

「ないと思います」

「じゃあ、なぜ警察をつかってまで、この女のことを知りたがる?」

「この子は自殺するかもしれないんです。僕は一度だけそれを救った。でも、二度目は無理だった。あれから二ヶ月以上経っている。もう既に、死んでいる可能性もある」

「どんな女なんだ?」

「子供の頃、火災で両親を亡くし、自らも全身に大やけどを負っています。もちろん今も、普通の人間の普通の暮らしができるような体ではない」

「今年に入ってから、そんな女が自殺したという話は聞いてないな…。歳は?」

「二十歳です」

「だいたいの住まいは?」

「たぶん、横浜市」

「よし、調べてあげよう」
大野はそう言いながらコースターを大事そうに上着の内ポケットにしまい込んだ。

「ところで丸岡」
大野は落ち着き払った口調でこちらを見据えた。
「佐伯奈々子とは逢えたか?」

私は首を横に振った。

「なぜ?」

「鶴川にはいませんでした」

「留守だったのか?」

「いや、家出したようだと、老婆が言ってました」

「そりゃ、まずいな。執行猶予中の身の上だというのに。行くあては?」

「わかりません」

「そうか…。でも、なぜ急に彼女と逢おうという気になったんだ?絶対許せないと言ってたおまえが」

「僕だって人間です。いつまでも過去のことに拘っていたくない」

「いや、違うな。わしはおまえの腹が読めてるぞ。おまえはまた佐伯奈々子をつかって、今回の事件に首を突っ込むつもりなんだ。どうだ?図星だろ?」

私は言葉を返さなかった。

「調べによると、高岡の共犯と思われる女は、新宿のソープ嬢らしい。佐伯奈々子を潜り込ませ、探ろうとしていた口だろう?なぁ、丸岡」

「違います」
私は言ったが、本当のところはそうだった。
高岡の行方を探るには、一緒にいた女の所在を突き止めるのが最も近道だ。

「いいか、佐伯奈々子をこの事件には巻き込むな。今の彼女だと、売春をしただけで懲役刑だ。おまえだって、そのぐらいはわかっているだろう」

「はい」
私は小さく返事をした。

「今日はやけに神妙なんだな…」

私はその後、たまっていた洗い物に取りかかり、大野とはひと言も口を利かなかった。

大野は最後に独り言のように『ごちそうさん』と口にして席を立った。
私は下を向いたまま『ありがとうございました』とだけ言った。

その晩、私は渋谷の自宅へ帰ると、半月ぶりにパソコンの電源を入れた。
利奈が音信不通となり、マシンと向かい合うことがなくなった。
それはそうだ。
唯一のメール友達からのメールが来ないのだから、いちいち繋ぐ理由もあるはずがない。
が、しかし今、ダイヤルアップに接続を済ませ、メーラーを起動した瞬間、私の心の中に翳っていた雲が、徐々に晴れていくのを自分ながらに感じていた。

一通のメールが落ちた。
それはまさしく、利奈からのEメールだった。

おひさ(^^)利奈でーす。

丸岡くんにはたぶん心配かけただろーね。ごめーんm(__)m

自殺したとでも思った?

えへっ、わたしは元気よ。

でもね、死のうと思ったのも事実。

丸岡くんの娘さんが大変だったのはメールで知った。

でも、無事助かったみたいね。

新聞で読んだわ。

よかった、よかった ^^

わたしね、三月に入ったら、叔父のいる島根へ引っ越す予定なの。

関東には、よい想い出がないもの。

向こうにはね、体の不自由な人が暮らせる施設があって、

もちろん、東京にもあるけど、規模がぜんぜん違うの。

自然もたくさんだしね。

島根にはパソを持って行こうと思う。

だから今まで通り、メール交換も続けたい。

毎日でなくてもいいから。

もう死ぬなんて言って、丸岡くんを困らせたりはしないよ。

それと、もう関東へは戻って来ないと思うの。

だから一度だけ、一度だけでいいから逢いたい。

イヴの夜に待ち合せた場所で、五日の夕方五時に、ね。

待ってまーす。

利奈

メールが送信された日付は二月一日で、三日前だった。
そして、利奈が逢おうとしているのは明日。

私はダイヤルアップの接続を切ると、ハーパーの入ったロックグラスを手にし、ロッキングチェアに腰を降ろした。

サイドテーブルには、イヴの日に利奈へ贈るはずだったマフラーが置かれたままだった。
ブランドのロゴの入った紙袋が多少埃を被っている。

私はティッシュを手に取り、紙袋についた埃を丹念に拭った。

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