5
大野警部が『ヴォーグ』を訪れたのは、それから三日後のことだった。
彼は高岡という名の男――安岡の行方はおろか、やつが捌いている覚醒剤ルートの洗い出しにも何の発展がないことを私に告げた。
大野はカウンターの中央に座り、ため息ばかりをついていた。
思いついたように水割り入りのグラスを口に運び、煙草に火を点けてはすぐに揉み消し、一分も経たないうちに新しい煙草をくわえ、それも短くなるまでは吸わなかった。
私は大野の落ち着かない心境を悟っていた。
私に何かを求めているわけではない。
グチをこぼせる相手が欲しいのだ。
「大野さん」
私は言った。
彼は酔っ払いが道行く人を睨み付けるような目つきで、私を見返してきた。
「ちょっと、調べてもらいたいことがあるんです」
「なんだ?」
私は手元のバッグの中から手帳を取り出し、それに記してあったメールアドレスを一枚のコースターに書き殴った。
「これはEメールだな」
大野はコースターを手に取り、"rina"で始まるメールアドレスに目を凝らした。
「はい。僕が去年の終わり頃からメール交換をしている女性です。その子の住所と電話番号を調べて欲しいんです。できれば、フルネームも」
「事件と関係があるのか?」
「ないと言ったら、調べられないでしょう?あるということにして」
「違う。わしが訊いているのは、この女が一連の事件と関係があるのか、ということだ」
「ないと思います」
「じゃあ、なぜ警察をつかってまで、この女のことを知りたがる?」
「この子は自殺するかもしれないんです。僕は一度だけそれを救った。でも、二度目は無理だった。あれから二ヶ月以上経っている。もう既に、死んでいる可能性もある」
「どんな女なんだ?」
「子供の頃、火災で両親を亡くし、自らも全身に大やけどを負っています。もちろん今も、普通の人間の普通の暮らしができるような体ではない」
「今年に入ってから、そんな女が自殺したという話は聞いてないな…。歳は?」
「二十歳です」
「だいたいの住まいは?」
「たぶん、横浜市」
「よし、調べてあげよう」
大野はそう言いながらコースターを大事そうに上着の内ポケットにしまい込んだ。
「ところで丸岡」
大野は落ち着き払った口調でこちらを見据えた。
「佐伯奈々子とは逢えたか?」
私は首を横に振った。
「なぜ?」
「鶴川にはいませんでした」
「留守だったのか?」
「いや、家出したようだと、老婆が言ってました」
「そりゃ、まずいな。執行猶予中の身の上だというのに。行くあては?」
「わかりません」
「そうか…。でも、なぜ急に彼女と逢おうという気になったんだ?絶対許せないと言ってたおまえが」
「僕だって人間です。いつまでも過去のことに拘っていたくない」
「いや、違うな。わしはおまえの腹が読めてるぞ。おまえはまた佐伯奈々子をつかって、今回の事件に首を突っ込むつもりなんだ。どうだ?図星だろ?」
私は言葉を返さなかった。
「調べによると、高岡の共犯と思われる女は、新宿のソープ嬢らしい。佐伯奈々子を潜り込ませ、探ろうとしていた口だろう?なぁ、丸岡」
「違います」
私は言ったが、本当のところはそうだった。
高岡の行方を探るには、一緒にいた女の所在を突き止めるのが最も近道だ。
「いいか、佐伯奈々子をこの事件には巻き込むな。今の彼女だと、売春をしただけで懲役刑だ。おまえだって、そのぐらいはわかっているだろう」
「はい」
私は小さく返事をした。
「今日はやけに神妙なんだな…」
私はその後、たまっていた洗い物に取りかかり、大野とはひと言も口を利かなかった。
大野は最後に独り言のように『ごちそうさん』と口にして席を立った。
私は下を向いたまま『ありがとうございました』とだけ言った。
その晩、私は渋谷の自宅へ帰ると、半月ぶりにパソコンの電源を入れた。
利奈が音信不通となり、マシンと向かい合うことがなくなった。
それはそうだ。
唯一のメール友達からのメールが来ないのだから、いちいち繋ぐ理由もあるはずがない。
が、しかし今、ダイヤルアップに接続を済ませ、メーラーを起動した瞬間、私の心の中に翳っていた雲が、徐々に晴れていくのを自分ながらに感じていた。
一通のメールが落ちた。
それはまさしく、利奈からのEメールだった。
メールが送信された日付は二月一日で、三日前だった。
そして、利奈が逢おうとしているのは明日。
私はダイヤルアップの接続を切ると、ハーパーの入ったロックグラスを手にし、ロッキングチェアに腰を降ろした。
サイドテーブルには、イヴの日に利奈へ贈るはずだったマフラーが置かれたままだった。
ブランドのロゴの入った紙袋が多少埃を被っている。
私はティッシュを手に取り、紙袋についた埃を丹念に拭った。