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「お疲れさん」
そんな声がして、私は目を見張った。
私の正面に現れて言ってきたのは、誰を隠そう大野警部だった。
横で拳銃を握り締めているのは若手の刑事だろう。
私はきりりと大野を睨み返した。
「なんだい、そんな怖い顔しなくとも」
大野は目を丸くして、笑いながら言った。
「森下、もう銃は降ろせ。この男は犯人ではない」
「大野さん。どうしてここがわかったんです?」
私は言った。
「知りたいか?」
「もったいぶらずに教えてください」
「じゃあ、その前に一つ答えてもらおう」
「なんですか?」
「rinaというメールアドレスの女とは、どこで知り合った?正直に言え。嘘はつくな」
「ホームページを見た利奈が、そこから僕にメールをくれた。あれっ?前に話さなかったっけ?」
「初耳じゃよ。自殺願望の強い女で、その身元を調べてくれと言われてるだけだ」
私はそのとき、ピンときた。
「大野さん、もしかして…」
「そうだ。おまえが教えてくれたメールアドレスの主は――いや、おまえに送信されていたメールは、すべてこの部屋の回線からだったんだ」
「じゃあ、利奈はここにいた、ということですか?」
「違う。あのアドレスを所得しているのは男。プロバイダでの登録名が高岡昇」
私は一瞬、息を呑んだ。
「ここは三日前まで、有限会社ケーリッヒという会社がテナントとして入っていた。一昨日の晩、夜逃げ同然のように消えた。電話回線もまだ繋がったまんまだ。代表者の名前も高岡昇」
私は一昨日の夕方、乃木坂で利奈と逢おうとして、セドリックに乗っている男に襲われた。
ここから高岡が消えたのも一昨日の晩。
「おまえが利奈だと思っていた女は、もしかしたら高岡だったんじゃないのか?おまえはやつをかよいわい女と妄想し、いろんな情報をペラペラと話した。違うか?」
「ねぇ、大野さん。僕が手配してくれと話したセドリックはどうなりました?持ち主はわかりました?」
「おまえが言ってた登録ナンバーの車など存在しない。そんな事件が本当にあったのかい?」
正面に部屋があった。
ドアは開け放たれていた。
私は大野の質問を無視し、部屋の中へと入って行った。
六帖ほどの部屋で、窓際に木製の机があった。
その上にはオフィス用の電話が一つ、置かれてある。
その他、床にのいたるところに綿埃が溜まっていた。
それから私は部屋を出て、短い廊下の先にある隣りの部屋へと足を運んだ。
ここも六帖ほどの部屋で、備え付けのベッドはあるものの、何一つ残っていなかった。
入ってすぐの右側の壁に、白のインターホンがくっついていた。
私はそれに目をやり、紗也香は何回、この受話器を取ったのだろうかと考えた。
「手は触れるなよ。今から鑑識が来る」
私の後ろをついてきた大野が言ってきた。
「高岡の指紋はわかっているんでしょ?」
「重要なのは高岡の指紋ではない。共犯者と思われる女の割り出しだ。前歴があった場合、事件は一気に解決する」
「大野さん、その女っていうのが利奈なんでしょうか?」
「おまえに送ったメールはここの回線からだ。必然的にそうなるわな」
「でも大野さん。利奈は最初、僕に『死にたい』と書いて送ってきた。ということは、それは僕に近づくため、紗也香を誘拐するため、っていうことになるんです。しかし、一連の事件は単なる身代金目当ての誘拐ではない。覚醒剤の取引から生じたいざこざが発端だ。そんなものに、見ず知らずの僕を巻き込む理由はない」
「丸岡、前にも言っただろう。おまえは碓井と偶然知り合ったことで、余計なことを知り過ぎた。相手は警戒し、さぐりを入れてきた。そしてやばいと思い、おまえに警告を入れた」
「違う、時期があべこべだ。碓井が店にやってきたのは、利奈と知り合ったあとなんだ。それに、彼女にこの件を話したのは紗也香が誘拐されたあと。そう、クリスマスイブの晩なんだ」
「利奈という女が実在すると思うか?」
私は大野の言葉にどきりとした。
もし、あのメールがすべて演技だとしたら、書いていたのが高岡だったとしたら、を考えていた。
「こういう推理は成り立たないかい?」
大野は言った。
「最初、高岡と碓井はここで組んでシャブを捌いていた。しかし、なんらかの原因で仲違いをした。碓井はひそかに高岡を殺す計画を企てていた。殺人を探偵に依頼しようとな。しかし、直接出向くのでは危険を伴うわけだ。そこでなんとか善い方法をと、インターネットを利用した。ここにあった、高岡のパソコンから検索して、格好の相手、おまえのサイトを見つけ出した。ただ、いきなり頼むのも不安だ。そこで女に化け、相手の性格を探ってみようと試みた。ところが、それを高岡に感づかれてしまった。高岡は戒めのため、やつの娘を誘拐した。碓井は藁をもすがる気持ちで、おまえの店を訪れた。ところが断られ、返り討ちに遭った。どうだ?完璧な推理だろ?」
「推理は成り立ちますが、碓井が殺されたあとも、利奈からはメールが来てるんです。文面も変わらずね」
「それは高岡が引き継いだに決まってるだろ。メールが来なくなったことで、おまえが利奈を捜すようなことがあったら厄介だからな。きっとやつはその中で、おまえが碓井から何か聞いてないかを訊き出すつもりだったんだ」
「違う。高岡がそこまでまわりくどいことをする必要がありますか?だったら紗也香を誘拐したときに僕を呼び出し、尋問でも何でもできたじゃないか」
「じゃあ、丸岡。おまえの推理はどうなんだ?高岡、おまえにメールしてきた相手、それと碓井との関係だ」
「たぶん、碓井は高岡から覚醒剤を買っていた。ところが二人の間に、なんらかのトラブルが生じた。そのせいで高岡は碓井の娘を誘拐し、殺した。碓井はその復讐のために探偵社を廻って、高岡を殺してくれる人間を捜して歩いた。ただ、僕は利奈が高岡の共犯者だとは思いたくない。少なくとも、高岡の悪事に進んで加担する人物ではない」
「甘いな。おまえは相手の命を救ったことで、世の中も捨てたもんじゃないと教えてあげたつもりなんだろうな。たしかに世の中は捨てたもんじゃない。嘘のつけない正直者もたくさんいる。しかしな、そんな輩を食い物にしている悪党も同じ数だけいるんだ。都会のど真ん中で探偵業を営んでいる人間の言うことじゃないぞ、丸岡」
「何が言いたいんです?」
「おまえは利奈という女に騙されている、ということだ」
「大野さんに、そんなことがわかるんですか?」
「この事件では、高岡の共犯と思われる女の姿が見え隠れしている。調べでは、新宿の風俗嬢であるということまで掴んだ。おまえがメール交換をしていたのはおそらく、その女。おまえが妄想しているような、かわいそうな女ではない」
「もう一度、調べてみますよ。大野さんの邪魔をしないようにね」
私はそう言って踵を返した。
大野が後ろから何か言ってくると私は予想した。
しかし、何もなかった。
私は部屋を出て、ゆっくりと階段を降りて行った。