3
ぼんやりと目が覚めたとき、部屋にはシャデーが流れていた。
この重っ苦しい空気の中で、その曲はさらに私の心を重くしていた。
私はラジオを止め、キャビネットから、エリック・クラプトンのCDを取り出した。
それをセットし、洗面所まで歩いて行く。
鏡の中に自分の顔を映してみた。
目がくぼんでいる。頬も幾分こけていて、何より無精髭が自分ではないようだ。
私は蛇口から勢いよく水を出し、それで自分の顔を何度も洗った。
もう一度、鏡を見やってみる。
両手の平で、頬を叩く。
「しっかりしろ、丸岡。望みを捨てるな」
声を出してみた。
が、やはり、クラプトンも重かった。
電話が鳴っていた。
私はゆっくりとそこまで歩いて行き、受話器をとった。
「おはよう」
大野からだった。
「おはようございます」
「ずいぶんと礼儀正しいんだな。夜の仕事を辞めると、こうも変わるもんなのかな」
「眠くないからだけです。で、ご用件は?」
私はまさか紗也香が見つかったという朗報とは思わなかったが、悲報であるとも思いたくなかった。
ただ、大野の口調は沈んでいる。
「いいか、気を落とすなよ」
私は聞きながら、自分の血の気がひいていくのを感じた。
何も返せなかった。
「柳沢が自殺した」
「それだけですか?」
「そうだ」
「大野さん。僕は柳沢なんかと面識がない」
「手掛かりが一つ減ったことになる。事件解決に、またも弊害が生じたということだ」
「僕は今、事件なんてどうでもいいと思っている。犯人が永久に捕まらなくてもいいい。今回のことが迷宮入りになったとしてもね。もう、そんなことはどうでもいいんだ。紗也香、紗也香さえ無事ならば」
「まあ、気持ちはわからんでもないが、犯人からの要求がないかぎり、事件解明を優先するしか方法がないんだ」
「柳沢が自殺したかった気持ちもわかるさ」
「丸岡、やつはただ娘が殺されたから、自暴自得になって自殺したわけではないんだぞ」
私は無言のまま、大野の言葉に聴き入った。
「今調査中だが、柳沢は人を殺してる。まあ、間違いないだろう」
「誰を?まさか、高岡?」
「いや、高岡じゃない。中野で探偵社を営んでいる男だ」
「シャールック探偵社ですね」
「さすがだな、丸岡」
「そして柳沢も『人を殺してくれ』と言って探偵社を廻っていた一人だった、ですね」
「その通り。殺された探偵――真鍋明というんだが、やつは所轄署勤務当時から高岡と接触があった。もっと早く気づいとけば、こんなことにはならなかったんだ」
「真鍋を殺したのは、柳沢で間違いないですか?高岡が現れたという可能性は?」
「柳沢の自宅から、血の付いたナイフと返り血の浴びたジャンパーが見つかった。ただ、わしにはわからんのだよ。やつはいっぱしの公務員。そんな男が『人を殺してくれ』などと言って、探偵社を頼んで歩くか?娘の復讐ならば、他人なんかに任すかな」
「しかも、それをしていたのは娘が誘拐されるよりずっと前からだった、でしょ?」
「ん?なんで、そこまで」
「大野さん。『人を殺してくれ』というワードは、本当に人を殺してくれという意味じゃない」
「なんだと?」
「『人を殺してくれ』というのは『高岡と接触したい――覚醒剤の取引をしたい』という隠語でしょう、おそらく。そして、その窓口が探偵社」
「ということは」
「はい、碓井は高岡と接触するために、探偵社を廻っていた。柳沢もそうだろうけど、彼の場合は仕事で高岡を捜していた。その代償として娘を殺されたんだ」
「なるほど。これなら繋がる」
「高岡が碓井の娘を誘拐したのは、取引による金銭トラブルです。おそらく」
しばらく沈黙があった。
「丸岡」
「なんですか?」
「おまえ、わしに嘘はついていないな?」
「どういうことでしょう?」
「紗也香ちゃんが誘拐された理由だよ。もしかしたら、おまえも『人を殺してくれ』なんて言って、探偵社を廻ってたんじゃ・・・」
「それは前にも言ったはずです。碓井はなんの前触れもなく『ヴォーグ』を訪れた。僕に『人を殺してくれと』と言ったのは、高岡を捜すために探偵社を訪ねていて、たまたま僕のホームページを見たからなんだ。最初は単にそれだけの出来事だった。碓井が哲学堂で殺されたことだって、僕は第三者的な目で見ていただけだった。ところが、僕のところに柳沢の娘さんの手首が送られてきた。その辺からおかしくなったんだ。なぜ?僕は自ら事件に首を突っ込んでいるわけではない。誰かが故意に巻き込んでいる。紗也香まで誘拐し・・・」
「考えられることはメール交換している相手、だな」
「彼女とメールを始めたのは、碓井が訪ねて来るもっと前で、どうやって高岡と結びつくんです?」
「実際、利奈と名のった女は、高岡のサーバーを利用しているんだ。だから事件の発端はそのメール。そこから事件は始まってるんだよ」
「最初にメールしてきたのは利奈の方。僕を事件に巻き込む理由がどこにある?」
「利奈なんて女はいない。目を覚ませ」
「そうだ、大野さん。東京で『島根』っていう地名はありませんか?横浜でもいい」
「ある。足立区に、島根ってところがな」
「そうですか」
「しかし、ずいぶんと島根にこだわるねぇ。一応、おまえの言ってた島根の温泉とかは県警の協力を得て、調べてもらってるよ。あやしい男女連れの泊まっている旅館がないかね」
「ありがとうございます。それと大野さん」
「なんだ?」
「利奈は『ナツミ』という風俗嬢かもしれません。新宿のアニータというデリヘルで働いていたらしく、高岡にシャブ漬けにされています。調べてください」
「ああ、わかった」
私は大野からの電話を切ったあと、昨夜から起動したままのパソコンの画面に眼を戻した。
今の私は、メールを待つしかない。
紗也香が誘拐されて、既に一週間が経っていた。