4
足立区島根というところは、環七と国道四号の交差する梅島陸橋の一画に位置し、幹線道路こそ車の往来が多いものの、少し入れば庶民的な低層住宅と、さほど大きくないマンションや三階建て程度の雑居ビルが密集する、ごくありふれた東京の下町だった。
私は朝からこの町の隅から隅まで歩き廻り、一つの銭湯を見つけた。
『島根湯』と描かれた看板が屋根の上にのっかっていた。
入口の横に小さなコインランドリーがあり、中では髪のボサボサな学生らしき男が洗濯をしていた。
もちろん、まだ二時なので、銭湯は開いていない。
私は風呂屋に背を向け、この看板が見える建物はないか周囲を見渡した。
ほとんどが民家だった。
こちらが北側らしく、洗濯物を干している家は見当たらない。
当然、ベランダがこちら向きの家もなかった。
低層住宅が密集するその中で、一際目立つビルがあった。
とは言っても三階建てだが、その三階の窓だけがこちらから浮いて見える。
スモークフィルムが貼ってあるらしく、窓の色は真っ黒だ。
そこには『ローン、保証人・島根』と貼られた、蛍光色の文字ステッカーが窺えた。
私はそこだ、と直感した。
一階が梱包資材を扱う店のようだった。
ただ、平日なのにシャッターが降りているので、常時営業はしていないのかもしれない。
私はビルの入口の、テナントの表示してあるプレートに眼をやった。
二階のプレートには何も書かれていない。
三階には『島根商事』と記されていた。
二階は問題ではない。『島根湯』の看板が見えるのは、三階の窓からだけなのだ。
私は階段を駆け上った。
三階の踊り場まで来て息を鎮め、腰から特殊警棒を取り出して左手に握った。
鉄の扉には曇りガラスの小窓がついていた。
電気は点いている。
私はドアノブに右手をかけ、ゆっくりと回した。
ドアを開けた途端、眼に飛び込んで来たのは三人の男だった。
ネクタイこそしているものの、サラリーマンには見えない。
その証拠に、三人が三人とも、眉間に皺を寄せていた。
「なんじゃ、てめぇ!」
一人の男が私の警棒に視線を落としながら叫んだ。
「高岡はどこだ!」
「だから、てめぇは誰だって訊いてんだよ!」
すぐさま一人の男が奥の扉のあるところまで走って行き、何かを告げた。
すると、さらに五人の男が奥の部屋から姿を現した。
その中の二人は拳銃を手にし、銃口を私に向けている。
私は動けなかった。
銃を持っている一人が私の目の前まで歩いて来た。
私の額に銃口を近づけ、警棒を奪い取った。
私の体を上から下まで念入りにチェックし――私はこの間、両手を上げていた――何も持っていないことがわかると「こいつ、チャカは持ってませんよ」と言った。
途端、周りの男全員が大きな声を出して笑った。
「おい、おまえはなんじゃい。こんな棒っきれ一本持って、タマ奪りに来たんか?」
「タマなどいらない。高岡を出せ」
私は返した。
「こいつ、アタマおかしいんと違うか。少しかわいがってやれや」
いちばん頭格と思しき痩せた男が言うと、私の警棒を手にしていた男が、それで私の鳩尾を突いた。
私はたまらず腰を落とした。
その後、何発もの拳を食らった。
三発目からの顔面は意識が朦朧としてわからなかったものの、右の脇腹を蹴られたときには足の先まで激痛が走った。
頭から水をかけられたようだった。
私はぼんやりと意識を取り戻した。
誰かが私の髪をひっぱり、何か言っている。
私は「息が臭いから、顔を近づけるな」と返した。
また何発か食らった。
私はそのまま意識を失った。
どのぐらい眠ったのだろうか。
なんとなく、夜だということはわかったが、今の状況はまったくだった。
なにしろ顔が腫れているために、目を開けるのも困難なのだ。
――目を覚ましたみたいですぜ。
そんな声が聞こえ、私は胸ぐらをつかまれた。
「おい、どこの組のもんだ?山根か?早川か?」
明らかに私は、対立する組織のヒットマンだと思われているようだった。
私はこのとき、ここには高岡はいないと確信した。
が、もう遅かった。
もしかしたら、殺されるかもしれない。
「警察だ」
咄嗟に、私の口から出た言葉はこんなものだった。
「はぁ?サツだと?」
さっきと同じような笑い声が聞こえてきた。
そしてすぐさま、二発の蹴りが私の胸部を襲った。
「てめぇ、口からデマカセ言うんじゃねぇよ。デカがここへ来るときはな、チャカ持って来るんだよ。それと、偉そうに手帳もな。しかも、独りで来ることなんかねえ。デカは一人じゃ、なんにもできねぇんだ。集団じゃないとな」
「おまえらもな」
私は言ったあと、またも蹴りが飛んで来るだろうと覚悟した。
が、そのときは何もなかった。
「どうします?なんにもしゃべりませんぜ」
いちばん若いと思われる男が、幹部らしき男に言っている。
「どっちにしろ、このまま帰したら、あとあと面倒だ。今夜中にでも始末しとけ」
「荒川で、いいっスか?」
「いや、春の川はアシがつきやすい。富士まで持ってけや」
富士とはおそらく、裾野の樹海だろう。
自殺の名所。屍体を見つけてもらえるのは、早くて九月だ。
私は朦朧とした意識の中で、ここから東名高速を使って青木ガ原まで行くのに、どのぐらいかかるだろうと考えた。
当然、荒川までより時間はかかる。
深夜の空いている時間帯。早く見積もって三時間。たっぷりある。
そう、私は今、死ぬわけにはいかない。
このあと、私の意識が戻ったのは、揺れた車の中でだった。
トランクに入れられるだろうと予測していたが、連中は丁寧にも後部座席に座らせてくれた。
両脇を大きな男二人に挟まれている。
私は薄っすらと眼を開け、外の景色を見やった。
ちょうど多摩川を渡っているようだった。
車は神奈川県内に入る。
「煙草を吸わしてくれないかな」
私は東京料金所のランプが見えてきたところで、口を開いた。
チャンスはここしかない、と考えたのだ。
男たちは驚いたようにして、こちらを見た。
驚いているのは、私がまだ口を利ける状態だからだろう。
――こいつ、なんか言いましたぜ。
――とっくにくたばってると思ってたんだがな。
――何者ですかねぇ。
――関係ねぇよ。
――それも、そうですね。
なんとも間抜けな会話だった。
私の要望も却下されたようだ。
料金所手前。
車が減速する。
瞬間、私は右側の男の顔面に右肘をくらわせ、左側の男には頭突きで攻撃した。
すばやくドアロックを解き、勢いよく車外に飛び出た。
男たち全員が車から降りる。
私は腰を沈めながら、全身の力を振り絞って声を挙げた。
「助けてくれーっ!殺される!」
途端、パーンという銃声が鳴り響いた。
私に向けて撃ったものだろうが、衝撃はなかった。
外したということだ。
私は隣のレーンまで転がって行き、通行券を受け取ろうとしている車のボンネットに張り付いた。
「クラクションを鳴らせ!」
わけもわからないまま、運転手がクラクションを鳴らす。
けたましいクラクションが延々と鳴り響いた。
男たちはそれ以上は追って来なかった。
私はこの場所に、交機の高速隊がいることを知っていた。
こんなところでドンパチが始まれば、東名の出入口すべて封鎖。連中は一人残らず逮捕される。
助かった。
が、私はもう既に限界だった。
地面に顔をつけたまま、意識が遠のいていくのを感じていた。
――死ぬのか丸岡。
――いや、死ぬわけにはいかない。
――死んでも死ねないのだ。