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穏やかな海だった。
断崖越しに陽が沈みかけていて、海面を赤く染めていた。
砂浜ではなく岩場。人影が見られないことから、季節は秋だろう。

私はこの光景を見た瞬間、三才の紗也香を連れて来たときの逗子海岸を思い出した。

磯で一人の女の子が遊んでいた。
顔が隠れるような白い大きな帽子をかぶり、赤のチェックのスカートを履いている。
手にプラスティックの熊手を持ち、必死になって砂場を掘っていた。
その横には、ピンクの小さなバケツが置かれてある。

「紗也香!」
私は叫んで駆け寄った。
三才の紗也香は顔だけこちらに向けると、すうっと立ち上がり、私とは逆の方向に走り出した。

「おい、待て、紗也香」
私は叫びながら、あとを追った。
私は全身を負傷していた。
少し走っただけで、息が切れる。
紗也香の姿はどんどんと遠ざかって行った。
それでも私は必死に追っかけた。

岩場で釣りをしている男がいた。
大きな麦わら帽子をかぶり、釣り糸を垂れている。

「おい、女の子を見ただろう。三才ぐらいの」
私は言いながら、その男の肩をつかんでこちら向きにさせた。

男は、私が中学のときの担任教師だった。
私の顔を見るなり、目を吊り上げている。
「丸岡、おまえは何度言ったらわかるんだ。島根だと教えただろう、島根と」
男はすぐに消えた。

近くの岩場に、焚き火をしている女がいた。
今度はそちらに駆け寄った。
「女の子を見なかったか?」

別れた前妻だった。
悲壮感を漂わせた顔をしている。
「あなたのせいよ、あの子が島根に行ったのは。そう、あなたがすべて悪いの」
そして、彼女もまたすぐに消えた。

断崖絶壁の上に、私のサラリーマン当時の上司が立っていた。
私に向かって叫んでいる。
「丸岡君、それは島根だろ。そのぐらいの常識は持ってくれたまえ」

ナーコが水着姿で立っていた。
「マル、島根に連れてってよぅ」

「島根、島根とうるさいぞ」
私はその声で目を覚ました。
私は自分が今置かれている状況を冷静に判断しようと試みた。

白いシーツ、枕、薬品の匂い。
私は病院のベッドに仰向けで寝ていた。

「よう、目を覚ましたか」
私のそばには大野がいた。私は無言で彼を見つめた。
私の目からは、涙がこぼれ落ちていた。

「何日、眠っていましたか?」
私はシーツで顔を拭いながら、尋ねた。

「丸一日だ。丸岡一日、なんてな。ははは・・・」
大野は馬鹿笑いをした。

「すばらしい」
私も少しだけ笑った。

「連中はすべて逮捕した。余罪をたっぷりつけて送検してやる」

「僕が悪いんです。思い込みが過ぎたようだ」

「わかればいいんだ。連中、自分らこそ被害者だ、正当防衛だなんて喚いとるよ」

私は握り拳を作ってみた。
握力はありそうだ。
起き上がろうとしたが、全身に痛みが走る。
ただ、無理をすればできないこともない。

「脳にも内臓にも異常はないそうだ。重い打撲ってやつだな。しかしまあ、頑丈な男だなぁ、おまえは」

「それだけですけどね」

「そうそう、看護婦に頼んで、髭は剃っといてもらったぞ。おまえに髭は似合わない」

私は頬に手を当ててみた。
先日までの無精髭はなくなっていた。

「大野さん、島根の件はどうなりました?島根の温泉です」
私が言うと、大野は上着の内ポケットから、一枚のメモ用紙を取り出した。
私はそれを受け取った。

そこには五軒の温泉旅館と、その所在地、電話番号が記されていた。
達筆なことから、きっと大野が書いたものだろう。

「島根県内で、怪しい男女が長期滞在してるという温泉宿だ。ただ、五日も前のものだ。今もそこに泊まっているとは限らん」

私は両手を使って、上体を起き上がらせた。
大野は痛々しい顔をしながら「まあ、その体じゃ、どこにも行けんわな」と言った。

「僕は今すぐにでも行きますよ」
そう言って、ベッドに腰掛けるような姿勢を作った。

「おいおい、やめてくれや。あと三日は、ここで寝てろ」

「大野さん。僕がここで寝てて、警察は紗也香を見つけ出してくれますか?保証してもらえるんですか?」

「できるだけのことはするさ」

「できるだけのこと?どこまでわかってるんです?高岡のことは?居場所だって、まったくじゃないか。ダメとわかっていても、旅館を一軒一軒虱潰しに当たるのが普通だ」

「これは神奈川県警の管轄なんだよ。わしらが追っているのは碓井を殺った犯人だ」

「同じでしょう。管轄も何もない!とにかく高岡を見つけ出さなきゃ、すべてが終わってしまう。すべてが・・・」

「おまえの言うすべてとは、紗也香ちゃんのことだな。じゃあ、なぜ離婚なんかしたんだ。家族三人、仲むつまじく暮らしてりゃ、こんなことにはならなかったんだろうが」

私は悔しかった。
涙が止めどなく流れ落ちる。

「とにかく、僕はここで眠っているわけにはいかないんだ。すぐに退院の手続きをしてきます」
私は勢いをつけて立ち上がった。
少しよろめいたが、歩けないほどではない。

「そこの戸棚に、おまえの私物が入っとる。あと、わしからのプレゼントとして、携帯電話も入れといた。衛星で所在地がわかるという、すぐれもんだ。病院を出たら必ず電源を入れておけ。そして肌身離さず持っていろ。わしはおまえを早死にさせたくない。わかったな」

「ありがとう、大野さん」
私はそう返すと、壁を伝いながらナースセンターに向かって歩いて行った。

病院は信濃町の早慶大付属だった。
私はそこからタクシーを使って渋谷まで帰った。
部屋に入り、まずはパソコンの電源を入れた。

電話には、留守録のメッセージが15件も入っていた。
一つは大野だったが、残りすべては無言だった。

パソコンのメーラーを起ち上げる。
一通のメールが落ちた。

こんにちわ(^^)利奈でーす♪

えっ、丸岡くんが島根に?

うれしい!

でもね、もしかしたら、ここにも長くはいられないかも。

丸岡くんが来てくれて、引っ越したあとだったら悪いし。

安心して。元気だから。

島根にいるうちに来てもらえるんだったら

本当に嬉しいんだけど・・・

私はメールを読み終えると、浴室まで歩いて行った。
洋服を脱ぐ。
体のいたるところに紫色の痣があった。
まあ、一週間もすれば消えるだろう。

熱めのシャワー。
背中と両腿に痛みを感じた。が、次第に慣れてきた。

私は浴室を出てから歯を磨き、身支度を始めた。

灰色のドレスシャツに黒のボウタイ、チャコールグレーのスーツを着込む。
クロゼットからは小さめのスーツケースを取り出し、三日分の着替えを押し込んだ。

私はすべてが済んでから、パソコンの前に戻った。
キーボードを叩く。

丸岡です。

今から島根へ行こうかと思う。

君のいるところは本当に島根なのか?

そのあとの地名は?なんという街?

島根の温泉というだけじゃ、雲をつかむような話だ。

たとえ僕が島根まで行って、

君が引っ越したあとだったとしても

僕は一生、君を捜し続けるだろう。

もう、こんなメール交換はやめにしよう。

君のことが信じられないわけじゃない。けど

逢わないと何も始まらないんだ。

君はもしかしたら、東京にいるんじゃないか?

だとしたら来週、3月18日夕方5時

前にニアミスしたユニバーサルに来てほしい。

必ず来るんだ。そう、これは命令だ。

待っている。

丸岡

私はこのメールの送信を完了すると、帽子をかぶってサングラスをかけた。
スーツケースを片手に持ち、ドア口へと向かう。
そのときに電話が鳴った。
ケースを床に置き、電話のところまで歩いて行った。

受話器を手に取り、私は何も発しなかった。
なぜなら、相手も無言だったからだ。
私はたまらず「高岡だな」と返した。

「今日の午後三時、サンシャインの地下駐車場。アルパエリアの129番」
高岡の声。初めて聞く声だった。

「紗也香は無事なんだろうな。声を聞かせろ」

「バ〜カ。メロドラマみてぇなこと言うんじゃねぇよ。黙って来りゃいいんだよ。サツには連絡するな。見張ってるからな」

「おまえ、俺の顔を知ってるのか?」

「さ〜てね」
高岡はそう言ったあと「ケケケ・・・」と不気味な声を出して笑った。

私は時計を窺った。二時になろうとしていた。

電話を切ると、急いで池袋へ向かった。

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