終章 1
タクシーは大泉学園町から市営霊園を右に見ながら、長い坂を下って行った。
たんぼや畑ばかりの、民家もほとんど見られないところだった。
黒目川の橋を渡る手前で右に入ってもらう。
舗装路ではあるが車同士がやっと擦れ違える程度の道で、ほぼ川沿いの道だった。
私は大きな廃工場のような建物が見えてきたところでタクシーを降りた。
私はここで間違いない、と思った。
鉄筋造りの廃工場で、白っぽい外観、四階建てほどの高さ。
そこが現在は使用されていないと判断できるのは、伸び切って枯れたススキが辺りを被い、車の出入りする柵のところに錆ついたチェーンが張られているからである。
私は急いで敷地の中へと足を運んだ。
時間を窺う。
4時55分。あと5分しかない。
工場の入口には、灰色の大きなシャッターが降りていた。
私はそれを思いっ切り蹴飛ばした。
ビクともしなかった。
今度は工場の裏手に回った。
人だけが出入りできる鉄製の扉があった。
もちろん施錠してあり、剥がれかけた警備会社のステッカーが貼られてある。
私は靴のかかとからバーナイフを取り出し、構わず解錠を試みた。
簡単に開けることができた。
中は鉄鋼所跡のようだった。
天井は20メートルほどもあり、鋼鉄の梁が巡らされている。
大きなチェーンが垂れ下がっていて、全体が錆びていた。
異様な匂いを放っている。
私は中二階――高さ的には四階分ほどある――に見えるプレハブ小屋に目をやった。
サッシ窓があり、カーテンがひかれていた。
私はすぐさま、そこに行く階段を捜した。
が、壁伝いに上って行く鉄梯子しか見当たらない。
私はその梯子が壊れていないことを確認し、足をかけて上って行った。
プレハブ小屋のドアにも鍵がかかっていた。
私はそこもバーナイフを使って解錠し、おそるおそる扉を開けた。
薄暗い中に、二人の女が倒れていた。
私は急いで窓のカーテンを開けた。
二人とも口に粘着テープを貼られ、両腕はビニール紐で縛られ、むき出しのガス管に繋がれていた。
その中の一人。
まさしく紗也香だった。
私はすぐさまバーナイフでビニール紐を切り、口の粘着テープを剥がしてやった。
「おい、紗也香」
ほっペたを軽く叩く。
顔が異常に熱っぽかった。
「紗也香!」
私は言いながら、もう一人の方の紐と粘着テープを取ってやった。
女は息をつまらせながら私を見上げた。
「爆弾が仕掛けてあるの」
私は時計に眼をやった。
あと2分しかない。
「紗也香!」
私は紗也香を抱き起こした。
薄っすらと目を開ける。
「パパ・・・」
「おい、しっかりしろ!」
「あたし、ダメかも・・・」
「なに言ってんだ、しっかりしろ!」
「おとといから、ひどい熱なの」
女が言っている。
「君はとにかく梯子を使って、ここから逃げろ。時間がない!」
私が叫ぶと「うん」と言って、女は部屋を出て行った。
「おい、紗也香。梯子を使って降りれるか?」
私は訊いた。が、返事はない。
私は彼女を抱き上げた。
私は五才のときの紗也香しか抱いたことがない。
今はずっしりと重かった。
「あたし、重いでしょ・・・?」
紗也香が口を開いた。
「五才のときと同じさ。ちっとも変わらない」
私は梯子のところまで歩いて行って、下を覗き込んだ。
女が下に辿り着いたところだった。
こちらを見上げている。
「早く建物を出ろ!時間がない!」
私は大きな声で叫んだ。
5時まで、30秒を切っていた。
紗也香を抱いたまま、梯子を下りるのは不可能である。
まして、この高さから飛び降りたら下はコンクリート、間違いなく即死だ。
私は外に向いている窓を開けた。
目の前を黒目川が流れていた。
建物の下は砂利の駐車場で、無事に飛び降りられる高さではない。
真下に、薄汚れたシートが被さってある膨らみを見つけた。
――イチかバチか。
もし、シートの中身が鉄骨だった場合、私たちは間違いなく死ぬだろう。
しかし、どっちにしろ死ぬのだ。
可能性の低い方にかけてみるしかない。
「いいか、紗也香。舌を噛まないように、しっかりと踏ん張るんだぞ」
5時まで3秒。
私は紗也香を抱いたまま、気合もろとも飛び降りた。
数秒は、間があっただろう。
背中から、ドスリという音を立てて落ちた。
と同時に、私は「助かった」と心の中で思った。
シートの中は枯れ草のようだった。
瞬間、もの凄い爆発音が轟いた。
私は必死で紗也香に覆い被さった。
爆風で、背中が押されているようだった。
ただ、不思議に熱さは感じられなかった。
私はしばらく紗也香に被さっていた。
もう一度爆発するかもしれない、そのあと誰かがピストルで撃ってくるかもしれない。いろんな悪夢が脳裏を過ぎった。
パトカーのサイレンを聞いたとき、私は緊張感から解き放たれた。
起き上がり、紗也香の顔を窺った。
高熱のせいか、ひどく紅潮している。
三人の男たちが私に向かって走って来ていた。
その中に、大野がいた。
「おい、大丈夫か!」
「救急車、救急車を呼んでください!紗也香が大変なんだ!」
すぐさま、一人の男がパトカーに戻って行く。
同時に、どこからか消防車のサイレンの音も聞こえてきた。
「とにかく、命に別状がなくてよかった。あれっ?女は?紗也香ちゃん一人だったのか?」
「いや、逃げました。と言うより、逃がしました」
「そうか。でも、顔は見たんだろ?」
「もちろんです」
「でもおまえ、どうしてこの場所がわかったんだ?」
「あれを見てください」
私が指差した先には『ラドン温泉まつえ』と描かれた看板があった。
「この奥に、三村ヨネの母が入っている老人ホームがあるんです。僕は前に一度来ている」
「丸岡。まさか、三村ヨネが利奈・・・」
「いや、違いますよ」
私は苦笑いを浮かべた。
「それより、紗也香ちゃんはどうなんだ?」
そう言われ、私は抱いている紗也香に視線を戻した。
「ええ、かなりの高熱です。大事にならなきゃいいんですけど」
そのとき、やっと救急車のサイレンが聞こえてきた。
大野と私はそちらに眼をやり、手を上げた。
「大野さん、すべては終わりましたね。ミステリーっぽい終わり方じゃなかったけど」
「いや、女を逮捕するまでは終わっちゃいない。どんな顔だった?若い女か?」
「彼女はたぶん、自首するはずです。高岡から騙されていたんです。気づいたときには遅かった、と反省している。必ず出頭しますよ」
「わしは、あんな詐欺まがいのメールをする女は信用できんな」
そのとき、救急隊が担架を持って現れた。
私は紗也香の身柄を彼らに預けた。
「大野さん。僕は今でも、利奈のメールが詐欺だなんて思っていませんよ」
私は言いながら、紗也香と一緒に救急車へ乗り込んだ。