高倉陶房の窯小屋は竹林の中にあります。
竹林は春夏秋冬四季折々の風情を出してくれます。陽の光が竹林に差し込んでいるときなど本当に美しいと感じます。
春、竹の子の季節には狭い竹林でも100本くらいは掘れますので、採れたての竹の子を食べる醍醐味は言葉に表せないほどに素晴らしいものです。煮てもよいし、茹でて刺身にして山椒の新芽を添えて酢味噌につけて食べるのも楽しみです。
毎年竹の子の季節には竹林の下で親しい友人たちとバーベキュウをやります。皮を付けたまま炭火で焼いて、焼きあがったら皮をむいて醤油と日本酒をかけて食べるのも野趣あふれておつなものです。
その他、竹の効用としては、竹炭を作って楽しんだり、年末年始には近くの特別養護老人ホームの角松になったり、竹細工をする友人が材料に使ってくれたり・・・。
だいぶ前に竹の灰から釉薬を作ったこともあります。竹を大量に燃やして灰にする。その灰を何回も(長時間)水に浸してあく抜きをして水簸する。更に灰を乾燥させてふるいにかけて細かい粒子(灰の粉)だけにする。竹の灰は割合と高温でも溶けにくく、白っぽい感じに発色した記憶があります。
このように竹の効用は多いのですが、一年を通して竹林の手入れは想像以上に大変です。
まずは、古い竹の伐採。竹薮全体に薄日が当たるよう古い竹は伐採します。成長してから3年ほど経つと竹の幹全体が黄ばんできますから、これは根本から伐採します。太くて大きな竹の伐採は一人では難しいので近くの友達に手伝ってもらって二人がかりで倒します。
次が、根の堀り切り。竹の子が生長し竹になった頃から、今度は根が地下を横にどんどん伸びてゆきます。そして翌年春にそこから竹の子が出ます。昔の農家などでは、縁の下から竹の子が畳を持ち上げる、といわれたくらいです。
竹の根は地表から30CM程度の深さのところを横に伸びてゆくので、竹林の周りを深さ60CMくらいのコンクリートブロックを埋め込んで囲んだこともあります。腰を痛めないようにかばいながら一人でこつこつと作業したので完成に二年ほどかかりましたが、完成して一安心と思っていたら二年ほどしてブロックの間を通り抜けて竹の根が伸びてきました。竹の根の勢いは恐ろしいくらいです。今では囲いの外まで伸びてきた竹の根を見つけるたびにスコップで根の周りを掘り起し、竹の子用の鍬で切り取り、応急処置を繰り返しています。
竹林の管理は体力勝負です。(2011.10.16)
高倉陶房の竹林 →
個展とかグループ展とか作品の発表会を開催すると、友人知人に来ていただいていろいろな意見(批評)をいただきます。そしてそのほとんどは“ほめ言葉”です。心からよいと感じて褒めていただけるのは有難いしうれしいのですが、よいと思っていなくともほとんどの人は、“いいですねえ”、“すばらしいですねえ”、と言ってくれます。
ちょっと天邪鬼(あまのじゃく)に聞こえるかもしれませんが、本心を言ってくれる人はほとんどいない、と思わなければいけないと思っています。
逆の立場になればわかりやすいのですが、発表会のような場所ではあまり相手を傷つけることは言いたくないものです。私自身も友人の発表会を訪れたときなどは、“頑張りましたねえ”、とか“色がよく出ていますねえ”、“味がありますねえ”、という具合で、良い面だけ相手に伝えるようにして、よほど親しくないと辛口批評はできないことが多いです。
見る側も見られる側も褒めて褒められて楽しいひと時が過ごせればうれしいのですが、更なる上達のためには辛口の批評をしてくれる人、作品のマイナス部分(下手な部分)を指摘してくれる人が有難いのです。
辛口の批評は言われた直後には良い感じがしないし、“こんちくしょう”と思うものですが、よくよく反省すると自分の作風の“改善ポイント”であることが多いのです。私の場合でも辛口批評をしてくれる人は10人中一人いるかいないかです。昨年なくなった西村久志さんはそんな貴重な友人の一人でした。西村さんは陶芸の技術的なことにはあまり詳しくはなかったのですが、それでも形や色調や焼き具合について、直感的にずけずけと耳が痛いことを言ってくれた貴重な兄貴分でした。
学校教育や社員教育などでも“ほめて育てる”とか、“良い面だけを見る”ということがありますが、陶芸の上達のために本当に必要なのは、辛口の批評なのです。
どんな世界でもそうでしょうが、年齢を重ねて社会的地位が上がればあがるほど、率直な意見・辛口批評をしてくれる人は少なくなってきます。“聞く耳を持つ”という姿勢は年齢を重ねれば重ねるほど大切になります。(2011.10.16)
箱根仙石原の紅葉 →
「青花の道」(弓場紀知著・平成20年初版・NHK BOOKS)を読みました。
青花(せいか)とは、白磁の素地にコバルト顔料で文様を施し、高温で焼きあげた彩画磁器のことをいいます。中国元代(1300年ころ)、景徳鎮で完成されたといわれ、中国語で「チンホワ」と呼ばれています。日本では見かけが藍色の麻布に似ているところから「染付」と呼ばれています。
青花は元代に一挙に産業化され、明・清を通して日本、アジア各国、イスラム中東、更にはヨーロッパ方面に輸出され代表的な中国陶磁器として世界に広まっていったのです。
この本は中国で花開いた青花磁器がどのようにしてアジア各国・中東・ヨーロッパ方面に運ばれていったか・・・アジアや中東各国で発掘された青花磁器の破片や、アジアの海域に沈んだ船から引き揚げられた陶磁器類、そしてトプカプ宮殿博物館(トルコ)、サントス宮殿(ポルトガル)などの中国磁器を保有する博物館などからの、多くの資料や著者自らの見聞をもとに、「青花の道」つまり交易ルートを考察している研究本です。
著者の弓場紀知さんは長年東京の出光美術館に勤務され青花磁器の交流を研究されてきた方で、ちょっとマニアックですが考古学的なロマンを掻き立てられる面白い本です。
そもそも青花の原料となったコバルトがどういう経路で中国に入ったか・・・?景徳鎮の青はどこから来たのか?シルクロード・砂漠と草原の道経由か?それとも海を渡ってきたのか?
“コバルトが焼き物に使われたのはペルシャが起源”という説がありますが、この本では、“青花の顔料がどこからもたらされたのかははっきりしない。国産なのか、中近東産なのか、今後の研究を待つしかない”としています。
そして完成された青花磁器はどういう経路で運ばれたのか?シルクロードを隊商のラクダの背に乗せられてはるばると・・・いや、割れやすい陶磁器の多くは海路を運ばれたのでしょう。
この本によれば、“かさばり、重たく、割れやすい景徳鎮の青花磁器などは船に積んで、昌江から九江そして長江に出て東シナ海に運ばれていた。そして隆盛期には、ジャンク船で東アジア、東南アジア、南アジア、インド洋沿岸からイスラーム諸国、さらにはヨーロッパへと販売ルートを広げていった。”とあります。(2011.9.29)
私の青花(景徳鎮みやげ)→
神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)