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MEMORANDUM−陶房雑記帳2011年4月

■兜(かぶと)と鯉のぼり

男の子の孫が年子で二人います。昨年の五月のお節句には初孫のために「陶兜(とうかぶと)」を製作しました。そして、今年は二人目の孫の初節句に「鯉のぼり陶板」を作りました。
 日ごろ“陶人形”のような作品はほとんど作りませんが、ちょうど3月に陶芸仲間のIさんが、女の子のお孫さんのために陶の雛人形を製作しお手伝いをしたばかりなので、何となく“勘”が残っていました。
 調べると、端午の節句のお祝いには、五月人形(武者人形や鎧兜など)の内飾りと、鯉のぼりなどの外飾りとがあるとのこと。本来、鯉のぼりは外飾りなのですが、陶板に描くと内飾りにもなります。
 兜(かぶと)は男の子が武将のように勇ましく元気に育つようにと願って作り祝うものです。兜にある二本の角状の装飾物は立物(たてもの)とか鍬形(くわがた)ともよばれ、装飾であると同時に相手を威嚇するためのものです。
 兜を作るに際してはこの鍬形の部分が一番のポイントになります。手で持っても折れ曲がらない程度に半乾き状態にした鍬形(パーツ)を、ドベで額の部分に接続する。そしてゆっくりと乾燥させる。
 鯉は急流をも遡る生命力の強い魚であり立身出世を象徴するものである。鯉のぼりには、鯉が滝を登るように元気な男の子になって欲しいという親の願いが込められています。半乾きの粘土板に白化粧土を塗って、その後を竹の掻きべらで削って緋鯉・真鯉を描きました。
 五月の連休に孫たちが来るので、新しく作った鯉のぼり陶板を渡すのが楽しみです。孫二人が元気に育つことを願いながら。(2011.4.22)
                         ↑陶兜と鯉のぼり陶板
                         

■NHK地球ラジオ・世界の窓

昨年10月の景徳鎮旅行でお会いした景徳鎮陶瓷学院のN先生、実は二十歩(にじゅうぶ)文雄先生のことです。日本で陶芸を修め後輩の指導養成をした後、縁あって景徳鎮に移り住み現在は景徳鎮陶瓷学院の客員教授をされています。
 その二十歩先生がNHKの地球ラジオに登場・・・ということでラジオを聴こうと思ったのですが、ラジオはカーラジオくらいしか聴いたことがないので、インターネットから入ってみました。
 NHKの地球ラジオは国内向けには第一放送で、海外向けにはNHKワールド・ラジオ日本(短波)を通じて生放送されています。インターネットで「NHK・地球ラジオ」を検索し、「世界の窓」の欄を開くと、世界中で活躍している人たち(主として日本人)からのレポートで綴られている、楽しいサイトが出てきます。
「世界の窓」4月13日の更新部分を開くと、二十歩文雄先生の活躍の様子と景徳鎮の陶芸事情などがレポートされていました。私にとっては懐かしい景徳鎮市内の風景や景徳鎮陶瓷学院での授業の様子など、たくさんの写真を見ることができました。二十歩先生が世界の磁都・景徳鎮で若い人たちに陶芸を指導し日本文化を広めている。そして陶芸を通じての国際交流を深めている。
 “中国の陶芸を学ぶ学生に日本陶芸の本質を伝えることは本当に意義のある国際交流と信じて務めています。”という言葉が印象的でした。素晴らしい現場からのレポートです。
 今回の私のホームページ開設に際しても二十歩先生からメールでいろいろとアドバイスをいただきました。景徳鎮陶瓷学院のキャンパスで一度お会いしただけなのに、“又来てください今度は食事でもしながらゆっくり話しましょう”、と言って下さる。もう何十年も前からの長い付き合いのような気がします。また、景徳鎮を訪問したくなります。
(2011.4.15)


                  ↑景徳鎮陶瓷学院のキャンパスで二十歩先生と

■線が生きている

私は素焼きした陶の地肌に草木花などの絵を描くことが多いのですが、このときの線の描き方が難しい。線一本で絵が生きたり死んだりしてしまいます。
 生きた線を描くというのは本当に難しいのですが、せめて死んだ線にならないように、描く前に何回も割れた素焼の陶板の上で練習してから一気に描くようにしています。それでもいい線が描かれるかどうかはその日の体調や気持ち の状態にもよるのかなと思うことがあります。下絵描きはちょっと間違うと絵の具が素焼きした地肌の間に染み込んで、修復がきかないので難しい作業です。
 そんなわけで生徒さんが描くときにも、何回か筆運びの練習を済ませたら、筆を持つ手が硬くならないように、一気に無責任に気楽に描くように、と指導しています。
 
運動神経が関係しているのか、柔軟な指と腕の動きが必要なのか? 景徳鎮の絵師たちは身体が柔らかい子供のころから訓練すると聞きました。高倉陶房でも、絵手紙をしている Iさんや、磁器絵をしているFさんはやはり線を描くのが上手です。やはり日ごろの訓練ですかね。 何年か前に都内の美術館でマチスの婦人像(デッサン)を見たとき、婦人の腕を描いた一本の線がふくよかな量感を見事に表現しているのに驚いたことがあります。剣豪、宮本武蔵が描いた「もずと枯木」の絵があります。一本の枯木にもずが止まって獲物を狙っている図ですが、長い枯木がすっきりと描かれている。さすが剣の達人、筆使いも見事なものです。
 古今東西、陶芸作品に限らず絵画や書でも名品といわれているものは、すべて描かれた線が生きていると思っています。
 ところで、生きた線と死んだ線の見分け方は? それはたくさん見て感じることだと思います。(2011.4.11)

■何焼き?

時おり“高倉陶房の焼物は何焼ですか?”という基本的な質問を受けることがあります。
 そういうときには以下のような説明をしてから、“強いて言えば「高倉焼」です”、と答えるようにしています。
  従来、そして今も、日本で益子焼、美濃焼、信楽焼、越前焼、丹波焼、清水焼、有田焼、・・・・などと言われてきた古くから有名な焼物は、その産地(基本的には焼物に適した粘土の産地)の名前を取っているわけです。そしてその名前が永年に渡ってその地の村興し・町興しになってきたわけです。中にはその地を治めていたお殿様の支持(藩命)によって陶芸が栄えたところもあるようです。
  最初のころは、このような多くの産地の焼物は美術品というよりも、産業用品・生活用雑器として発展してきたのではないかと思います。例えば収穫した穀物を入れて保存する、お茶を入れる、酒を入れる、等々。
  現代のように物流が発達してくると有名な産地の粘土が、何処に住んでいてもほとんど手に入るのです。また、便利なガス窯・灯油窯・電気窯などが比較的狭い場所でも使えるようになったことにより陶芸が盛んになって、今は何処に住んでいても好きな産地の粘土を使って陶磁器が焼けるようになっています。
  私の高倉陶房でも好きな粘土を取り寄せることが出来ますが、基本的には近隣の業者から取り寄せる信楽の土と京都の業者から取り寄せる赤土をミックスして使用しています。
 
もちろん、私の住んでいる藤沢市高倉近隣の土でも、田んぼを掘り起こしたり、山中の崖の土を採ってきて、“すいひ”して陶芸用の粘土を作ることは出来るでしょうが、なかなか土作りから始める時間的余裕もありません。以前、近くの宅地造成地や、三浦半島の海岸の土手から粘土になりそうな土を持ってきて、試し焼きしたことはありますが、私が採取してきた土は皆耐熱温度が低く、焼き締まる前に1000度くらいで溶けてしまった経験があります。2011.4.8
                            ↑高倉陶房の満開の白もくれん


神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)