佐賀県有田町で白磁を製作している井上萬二さんは1995年(平成7年)に人間国宝に指定され、白磁の第一人者、有田焼ろくろ成形の名手、というような呼称も持っておられる現代日本を代表する陶芸家の一人です。1929年(昭和4年)生まれということですから現在82才です。
縁があって井上さんの作品はいくつか手元にあるのですが、真白で端正な抹茶茶碗が気に入っています。白磁は平凡な形が一番難しい、ということですが、シンプルで何の飾りも無い青白磁の抹茶茶碗を掌(てのひら)に包むと、凛とした気持ちになるような気がします。もちろん純白の地肌にお茶の緑がとても引き立ちます。
20年ほど前に有田にある井上さんの窯場を訪問しお会いしたことがあります。初対面の私に対して丁寧に作品の説明をしていただきました。
何十年も白磁の真髄を求めて作陶を続けておられる井上さん。井上さんの作品を鑑賞するたびに、「白磁」だけでなく色絵とか染付けとか他の領域に浮気をしたくならないのか?聞きたいと思っていました。
そんな折、銀座の和光での個展の案内をいただいたので、訪問してきました。
和光の個展会場ではちょうど井上さんのギャラリートークが始まったところでした。井上さんは82歳とは思えないほどかくしゃくとして、ほぼ一時間立ちっぱなしで作陶姿勢や米国での陶芸指導の経験などを話されていました。
“焼物に絵付けをするのは女性がお化粧(装飾)をするようなもの、私は装飾しなくてもよいような美人づくりを心がけてきた”、という言葉が印象的でした。そして、「名陶無雑」(良い作品を作るためには雑念は無用である)という井上さんの座右の銘を説明されていました。白磁一筋に追求されてきた井上さんの作陶姿勢の一端が見えたような気持ちになり、私は、“浮気をしたくなったことは?”という野暮な質問をすることは止めました。
白磁一筋の井上さんですが、青・緑系の色釉などを紋様に使われることがあります。そのきっかけは若いころに景徳鎮を訪問し「景徳鎮の青」にヒントを得たと話されていました。また、近年は黄釉や紫緑釉などを使った作品も見られるようになりました。井上さんは、“年とって色気が出てきたのです”と笑いながら話されていました。
陶芸にはいろいろなジャンルがあります。無釉の焼き締めから、多くの種類の釉薬をかけたもの、絵付けをしたもの、などなど。私はいまだにあれもやりたいこれもやりたい、と常に浮気心を持っています。(2011.6.20)
井上萬二さんの茶碗→
平塚市美術館で開催されている北大路魯山人展を見てきました。魯山人はいろいろな“伝説”のある陶芸家です。京都に生まれ、もともとは書・篆刻(てんこく)の領域で名を知られていたようですが、多くの豪商などとの付き合いをもとに美術骨董店を経営したり、高級料理店「美食倶楽部」(後の「星岡茶寮」)を経営したりと、事業家としても奔放な活動をしています。
魯山人は自分では轆轤を挽かなかったとか、何人かの専属陶工を抱えていて自分はただ絵付けをして指示するだけだったとか、窯焚きはすべて職人に任せていたとか・・・いろいろな噂があります。
自らが書いた「魯山人陶説」(中公文庫・平野雅章編)を読むと、食道楽から始まった魯山人の陶芸は最初のころは、“陶工が作ったものに絵付けをしただけである”としているが、そのうちに“自ら全部を作らなくば自作品とは言えぬ”と認め、昭和3年(1928年)の春に鎌倉の大船山崎(現在は、河村喜史さんの基中窯のあるところ・陶房雑記帳2011年2月参照)に自分の窯を築いてすべてを自分で作るようになった。そして、“例え助手数名を要するとしても、正真正銘の自作というものが自分の窯から生まれ出るようになった。”と記しています。
“助手数名を要する”、ということですが、星岡窯が築かれてから昭和8年(1933年)までの約5年間は、美濃焼を代表する陶芸家、荒川豊蔵(後の人間国宝)が住み込みで製作を手伝っていたということです。調べると荒川豊蔵は魯山人よりも10才位若いので、弟分として有能な助手の一人だったのではないでしょうか?
今回の展示品は昭和10〜20年代に製作された織部・志乃・黄瀬戸・赤絵・染付け等々120点余りであり、鎌倉の星岡窯で焼かれたものが多いのだろうと思われます。
そもそも食道楽から始まった陶芸ですので、展示されている作品も料理を盛り立てるために作られたものばかりです。陶に書かれた絵にしても書にしても、細かい部分には拘らないで、それでいて本質を捉え伸び伸びと表現しているのが素晴らしいと感じました。
しかし、前述のようにその作陶姿勢などに逸話の多い方ですので、どうしても作品を鑑賞しながら先入観が先に来て、どこまで魯山人本人が汗を流して造ったのか?焼き上げたのか?複雑な気持ちで観賞する事になりました。
いずれにしても“魯山人ブランド”を今なお人気のあるものにしている偉大な指揮者・創造者(コンダクター)だったと私は思っています。(2011.6.8)
平塚市美術館の庭→
ひょうたん型の小さな酒瓶がふたつあります。ふたつとも紹興酒が入っていた瓶です。ひとつは上海の中華料理店で、もうひとつはシンガポールの海辺のレストランで貰ったもの。形が良いので紹興酒を呑み終わって空になった瓶を土産にください、というと店員は快く“どうぞ”と言ってくれる。型作りの大量生産品(*)の酒瓶ですがさすが陶磁器の本場中国製、形が洗練されています。陶房の窓辺において時々季節の花を生けて楽しんでいます。いいなあ・・・と思って眺めていると大阪東洋陶磁美術館で見た高麗青磁に匹敵する逸品に見えてきます。
値段が高いから、古いから、有名人の作品だから、という理由だけで“素晴らしい”と思いがちですが、それぞれ見る人に個性があるように価値観(見る目)が異なってもいいと思います。例えば、出光美術館にあった尾形乾山の角皿、絵は素晴らしいと思いますが、陶芸品としての造形は軽々しくて決して良いとは思えません。抹茶茶碗が桐箱に入って茶道の先生の箱書きがあったりするとずいぶん高い値段で売られているようですが、中の茶碗を眺めていると何か“こせこせ”しているな・・・と感じることもあります。デパートの美術画廊で見る有名陶芸家の作品の中にも、“堅苦しいな”、とか“装飾がうるさいな”、と感じるものが結構あります。美術品は自分なりに自分の感性で楽しむようにしています。私なりの価値観の一つは、“のびのびしていること”、が大切と思っています。
それにしても、紹興酒の瓶、嫌味がなくてのびのびしていて、庭に咲いている“大山れんげ”の花を生けてますます生きています。一度紹興酒の容器として役立って、更に花生けとして役立って、私に拾われたひょうたん型の酒瓶は大量に作られたうちの一つですがこれだけ大切にされて幸せ者だと思います。
*大量生産の方法:予め作った石膏型(割型)の中にどろどろにした粘土(泥しょう)を流し込み、一定時間そのままにしておくと石膏は吸水性があるので石膏に触れた部分の泥しょうは水を吸って固まる、ある程度石膏に触れている部分が固まった段階で固まってない泥しょうを流し出し、型を取り外すと花瓶が出来上がる。
(2011.5.31)
陶房窓辺の紹興酒の瓶→
昔ながらの穴窯や登り窯で自然釉(燃料となる薪の灰)をたっぷり掛けて焼く焼き締めの作品は、通常粘土を成形し乾燥させた後そのまま窯に入れて焼く(1200〜1300℃で)、つまり1回焼きで作品が出来上がります。まさに陶芸家にとっては一発勝負です。
私の作品は通常、素焼(750〜800℃)して下絵を描いて釉を掛けて本焼き(1250℃前後)する、つまり2回焼きです。更に本焼きした作品に上絵を描いて焼く(800℃前後)場合は3回焼きになります。
先日、鎌倉のギャラリーで高鶴大さんの個展が開かれていて、ちょっと立ち寄りました。会場で高鶴大さんと話していたのですが、高鶴さんの作品では5回焼きもあるとのこと。まずは素焼する、素焼した上に化粧土を掛けてまた焼く、更に釉薬や顔料を掛けて(塗って)何回か焼く・・・そして最後に金を750℃位で焼き付ける、とのこと。
何回か焼かなければならない最大の理由はそれぞれの顔料(色釉)の融点(発色に適した温度)が異なることにあります。金などのように融点の低い物質は最後になるわけです。
高鶴大さんのお父さん高鶴元さんは、もともとは九州福岡の上野(あがの)焼の出身ですが、米国にわたり現在ボストンを中心として活躍している陶芸家です。私はお会いしたことは無いのですが、友人のBさんが高鶴元さんと親しくされていた関係で早くから作品は拝見してきました。上野焼はもともと伝統的な茶陶を焼いてきた窯場ですので、高鶴元さんの初期の作品は伝統を踏まえた渋い茶陶が多かったのですが、アメリカにわたってからは赤を中心とする原色を使って伝統に拘らない作風を確立しておられます。
息子の大さんも15才の時からアメリカに移り住んでアメリカの美大を卒業し陶芸の道に進み、お父さんの作風・色調を踏襲しているように思われます。
大さん製作の茶器も日本的な陶芸からはかけ離れた原色(赤・黄・緑・金など)を使っているのですが、何となく重厚感があり、お茶席などにも合いそうな作品だなと感じました。一つの作品を仕上げるのに5回も焼くという熱意と執念がそうさせているのか? 私は新しい発見をした気持ちになりました。
(2011.5.31) ↑素焼や上絵付に使っている小さな窯
神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)