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MEMORANDUM-陶房雑記帳2012年7月

■山桃を描く

今年も庭の山桃の実が赤紫色にたくさん実って、地面に落ちて赤いビー玉を散らしたように転がっています。地面に落ちたままにしておくと実が発酵して甘酸っぱい匂いをあたりに発散し小さな虫が集まってきています。
 数年前までは木によじ登って実を採り、水洗いして焼酎(ホワイトリカー)と砂糖を入れて山桃酒を作っていました。山桃酒は仕込んでから1-2ヶ月でピンク色の綺麗な果実酒になりますが、3ヶ月以上たつとピンク色が薄茶色に変化して梅酒と区別できなくなります。日本料理屋などで食前酒として山桃酒を出してくれたり、料理の皿にお飾りで山桃の“砂糖煮”が添えてあったりすると、“洒落ているな”と思ってうれしくなってしまいます。
 若いころ京都で修行してきたという板前さんに山桃の実を使わないかと持ちかけたのですが、“料理が面倒なので”と断られてしまいました。数年前に近所のすし屋の親父さんに差し上げたらブランデーに浸して“山桃ブランデー”にして食前酒としてお客さんに出していました。山桃のジャムもありますが独特の香り(落ちたばかりの山桃の実はべとべとと松やにに似た粘りもあります)があり好き嫌いもあるようです。
 近所に住んでいる九州出身の方が散歩の途中に立ち寄って、子供のころに良く食べたといって懐かしがっていました。山桃は故郷を思い出す懐かしい木の実ということになります。
 山桃を皿に描いてみました。素焼きした皿に緑色とピンク色の下絵具で葉と実を描き、弁柄で細く輪郭を描きます。粘土の赤(鉄分)と絵の具が熱で変化するのを期待したのですが、全体的にメリハリのない焼き上がりになってしまいました。もう一度還元をかけて本焼してみようかとも思ったのですが、山桃の実の部分に赤い上絵の具を塗って780℃で焼き付けてみました。結果は実の部分だけ目立ってしまって・・・どうも落ち着きのない出来栄えになってしまいました。

               山桃の絵皿→

 以前、ワインクーラーに山桃の絵を描いたときはうまく実の質感を表現できたのですが今回は失敗作の紹介になってしまいました。(2012.7.17)





■写し

「写し」という言葉があります。意味は文字どおり書画などを写しとる、陶磁器などの模造品を造る、というような意味です。
 絵画の世界では「模写」という上達するための手法があり、書道の世界では「臨書」という古典的な書や有名人の筆跡を真似ることがひとつの流儀としてあります。
 私の友人の画家は若いころスペインに留学中に模写勉強のためにプラド美術館にはよく通った、といっていました。日本の美術館では未だ少ないようですが、外国の美術館では有名な絵画の前で堂々と模写している学生などが多いようです。
 先日、銀座で「フェルメール光の王国展」を見てきました。これはフェルメールのほぼ全作品といわれる37点の複製画がすべて展示してあるという、ファンにとっては非常に便利な展覧会なのですが、どうも“複製”という先入観念があると迫力を感じません。私は絵画の技術的なことはわからないのですが、会場で配布されるパンフレットに、「最新の印刷技術でデジタルマスタリングした“リ・クリエイト作品を一堂に展示”」と書かれているとどうも有難みを感じることができません。
 本物だろうと偽者だろうと、良いものだろうが悪いものだろうが、“人間が描いたもの”であれば、それなりに描いた人を創造し感じることができ楽しいのですが。
 陶磁器の場合も模造品を作ることは技術の向上に大いに役立つわけですが、そこに“一儲けしよう”というような邪心が働くと贋作などということとなり、いろいろと問題が生じることになります。有名なところでは、「永仁の壷事件」なんていうのがあります。また、尾形乾山の作品は「乾山写し」として多く出回っているようです。
      野々村仁清作雉香炉(写し)→
 一方、真剣に大昔の作品に取り組み追及している方もいます。神奈川県大磯町で青磁を中心として製作活動を続けておられる陶芸家川瀬忍さんのエッセイを読んでいると、中国北宋時代後期(西暦1000年前後)に栄えたといわれている汝官窯の青磁に惚れこんでその再現に取り組んでいるというくだりがあります。
 まさに1000年前に完成されたといわれる優品に向かって現代の陶芸家が努力しているということになります。
 良いものをたくさん観て、良いものをたくさん真似る、ということが芸事の基本ですかね。(2012.7.2)

■壷中天

「壷中天」と書かれた書を街の骨董屋で見かけました。この文字を店の看板にしているところもあるようです。今まで何となく目にして何となく自分流に想像していたこの言葉の意味ですが、改めて調べると中国の故事に由来した興味深いものです。

 “昔、中国のある若い役人が役所の2階から下の通りを見ていた。店先に壷を掛けて薬を売っている老人が、夕方、店を閉めたあと、ポンと壷の中に飛び込むのを見た。この老人は仙人だと思った若者は、次の日、待ち構えて、老人に頼んで壷の中に入れてもらった。壷の中は、素晴らしい景色で竜宮城のような絢爛豪華な別世界が広がっており、その老人に贅を極めた酒宴をもてなされ役所生活に疲れていた若者は壷の中でのもてなしに大いに寛ぎ楽しんだ”という故事です。
                          ↓壺を作る景徳鎮の陶工
 この薬売りの老人の生活こそ、多くの人たちが求める理想の生き方なのでしょうか。俗世間の中に生活しその糧を得るためにつらい仕事や人間関係もこなして生きる。しかし、俗世間から離れたところに本当の自分だけの世界をもっている。竜宮城のように絢爛豪華ではなくとも心休まる自分流の「壷の中」がある。どのような「壷中の天」を持つかによって人としての生き様(生き甲斐・人格)が決まってくるということでしょうか。
 「天」という言葉には、方位としての天、時間としての天、信仰対象としての天、等々あるようです。昔、初めて香港を旅したときに街角の菓子屋で珍しい菓子を見かけ日本への土産に買おうかと思い、筆談で「食可何日」と書いたメモ紙を店員に渡したことがあります。すると店員は「食可何天」と一字修正し私にメモ紙を戻してくれました。つまり「何日」ではなく「何天」だったのです。中国では日が昇ってから日が沈むまでの時間を「天」というようです。日本語の表現よりも何となく雄大な感じがします。
 ところで、壺を作る側からすれば、“その壺の中に入ってみたい。入れば竜宮城のような華やかな場所あるいは桃源郷のような美しい場所があるのでは”、と思わせるような壺を作ることこそ理想かもしれません。見る人の心を動かせるような作品づくりをしたいものです。(2012.6.30)

神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)