福岡で俳句の会「疾風屋同人」を主宰している友人、三谷宜郷さんからメールをいただきました。何となく昔の陶工たちの活動が偲ばれる興味深い内容なので、以下にそのまま掲載させていただきます。
“福岡市郊外の大野城市の市民劇団(迷子座)の芝居「須恵器の里」を観劇しました。私の学生時代の友人が劇団の団長をしており、地元の逸話を題材に芝居をしています。
この辺りは奈良時代に築かれた大宰府を守る大野城や水城などの多数の遺跡が残りますが、牛頸には500基を超える登り窯の跡があり、日本有数の須恵器(*)の里でもありました。
須恵器は6世紀頃に朝鮮南部の加耶の国からこの地に渡来した多くの陶人により伝えられたようです。
芝居はその時代の牛頸の陶人集団の物語です。
大宰府政庁から須恵器1000個の注文を受け、新たに巨大な登り窯を作って焼いたのですが、半分が生焼けになりました。煙道が小さ過ぎて火が良く回らなかったのです。失敗すれば苦役の罰が待っています。陶人達は苦悩したまま検品の日を迎えますが、検品役人が怒りだし須恵器を打ち壊します。それを止めに入った陶人らも打ちすえられます。
それを観ていた太宰府の高官が役人を止めて言います。「焼きものは陶人の命が宿る生き物だ。粗末にするでない。生焼けはまた焼けばいい須恵器になる」。
観衆はその言葉に感動して劇場が静かになりました。私も少し、陶人の心を知ることができました。”
竹富島の古陶→
<注>(*)須恵器(すえき)とは、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)のこと。5世紀に朝鮮半島南部から伝わったといわれている。登り窯と呼ばれる地下式・半地下式の窯を用いて1100℃以上の高温で還元焔焼成されているため青灰色で固く焼き締まっている。
同じ時代に並行して作られていたいわゆる土器(土師器・はじき)と呼ばれているものは、800―900℃くらいの低温で焼かれていたため赤茶色で品質的には須恵器に比べ劣っていた。埴輪も土器の一種である。
(2013.10.15)
高倉陶房の窯小屋の裏に榎(えのき)の大木があります。幹周りを測ってみたら約1メートル70センチの大木です。
この榎が去る三月の強風で窯小屋のほうに少し傾いてきました。5年ほど前に近所の植木屋に頼んで枝の伐採をしたのですが、また枝が伸びて大きくなってきて、風あたりが強くなっています。
そしてこの9月の台風でさらに窯小屋の方に傾いてきたような気がします。今後何回か台風にさらされると小屋がつぶされる可能性も出てきました。数年内には根元から伐採しなければならないようです。
今の窯小屋を作ってから今年で12年、本焼きだけで135回焼いていますが、まだまだ働いてもらわなければならない大切な窯です。135回焼いてやっと最近この窯の“くせ”がわかってきた気がします。陶芸は窯焼きだけでも奥深いものです。
藤沢市北部のこの辺りは津波の心配もなく、大水の出るような地形でもなく(海抜約30メートル)、これまでに竜巻が発生したということも聞かない土地柄ですが、やはり台風だけは心配材料です。それに2年前の3月11日以降、これまでの常識を超えた自然災害が多くなっているような気がします。
窯小屋と榎の大木→
榎の木の枝先には秋になると赤紫の小さな実がたくさんなって小鳥たちが群れを成して食べに来ます。実を食べにくるのはメジロ、ムクドリ、ヒヨドリなどです。
友人の開誠さんの力作「楽しい木めぐり・スケッチ図鑑616種」(近代出版)によれば、「江戸時代には街道の一里塚に植えられていたので誰もが知っている木だったでしょう。今は公園などに植えられていてもエノキとわからない人がほとんどです。枝には小さな実が付き、昔の子供は上まで登って食べました。干し柿のような味がしました。」とあります。
大木はそれなりに風情があるし、眺めていて楽しいし、文字通り年輪を感じ大切にしたいのですが、生活を脅かされるようになると考え物です。(2013.10.3)
神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)