秋のお彼岸。
暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので今年もお彼岸は暑くなく寒くなく、爽やかで快適な好天が続いています。
そして高倉陶房の庭ではこの陽気を待っていたかのように彼岸花が花開いています。
今年の夏は特に酷暑で、また夏の終わりころには長雨・豪雨などの異常気象が続いていましたが、彼岸のころになるとまるで計ったように土の間からにょきにょきと黄緑色の花茎が伸びてきて、先端に真紅の華麗な花を咲かせ見せてくれます。
花が咲き終わると根元から30~40cmの細長い緑色の葉が出てきますが,葉は翌春になると枯れてしまうので、秋になって花を咲かせてくれるまでは彼岸花の球根は地中に潜ったまま。つまり春から秋まで地中にいる時間が長いので、地上の天候変化に惑わされないで毎年決まった時季に地上に現れてくれるのだと思います。
秋の彼岸が近くなると必ず地上に現れる。土の間から伸びて芽を出す花茎を見つけると、“あ、忘れずに出てきてくれたな!”という感じです。
黙っていてもしっかりと約束を守ってくれる律儀な花、という印象で私は彼岸花が好きです。
彼岸花には毒花、地獄花、死人花というような縁起の良くない別名があるようですが、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)という別名は、天界に咲く花という意味とのこと。おめでたいことの兆しに天から赤い花が下りてくるという縁起の良い花を意味するようです。また、上記のように花は葉を見たことがない、葉は花を見たことがないことから「相思華」というロマンチックな名前もあるようです。
柳宗民の「雑草ノオト」(ちくま学芸文庫)によれば、彼岸花は中国原産で揚子江の土手に群生していた球根が土砂崩れで流され海を渡って九州沿岸に流れ着き日本に定着していったと想像しています。これもまたロマンのある話ですね。
神奈川県下では伊勢原日向薬師近辺の彼岸花の群生が有名ですが、高倉陶房から車で15分ほどの慶応大学湘南キャンパスの近くを流れる小出川沿いに咲き乱れる彼岸花も見事です。(2015.10.6)
「織部」とか「織部焼」という名前はちょっと陶芸好きなら誰でも知っているだろうし、もうちょっと陶芸好きなら桃山時代の武将・茶人だった古田織部からその名前が来ている、ことも知っているだろう。
しかし古田織部が道楽陶芸で織部焼を作った、と勘違いしている人も少なからずいるのではないかと思います。
私の知る限り、古田織部は陶芸に関して自ら制作したというものは全くなく(陶工が創った作品に絵付けをした、という記録はあるようですが・・・)、茶道具や茶会席具の偉大なプロデューサー兼デザイナーだったのです。織部が形とデザインを示して自分の息のかかった陶工を美濃や唐津・高取などの陶窯に派遣して作らせたというのが実態のようです。
湯島天満宮の宝物殿で開催されている、「利休を超えた織部とは?」展を観てきました。会場には織部の影響を受けたと思われる茶道具や直筆の書状など約200点が展示されていました。
高倉陶房・石井さんの織部→
焼き物としての織部の一般的な特徴は、緑色の釉薬を使っていること、左右不対称に変形された造形のものが多いこと、そして地肌に千変万化の文様が描かれていること、にあると思います。
織部焼は陶芸の初心者でも比較的馴染みやすい焼き物で、特徴ある緑色の釉薬をかけて、素地の部分に鬼板(鉄分を含んだ顔料)で幾何学文様を描いて焼き上げるとそれらしく見える織部焼が出来上がってしまいます。
しかしプロ好みの織部焼となるとそう簡単ではない、ということを改めて感じさせられる展示会でした。造形における絶妙なバランスの崩し方とデザインの多様性。一流のプロ(古田織部の時代はプロというより職人)が遊び心たっぷりに製作したことが偲ばれる作品の数々。
利休という厳格な先駆者がいて約束事の多い茶道の世界で自由奔放な発想で独特な個性を打ち出した古田織部という鬼才に改めて興味を持ちました。(2015.9.19)
神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)