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MEMORANDUM-陶房雑記帳2017年4月

■山内龍雄芸術館

山内龍雄芸術館は高倉陶房から車で30分ほどの藤沢市羽鳥にあります。国道一号線(東海道)からちょっと入った、まだ昔の風情が残された住宅街の中にあります。
 約30年にわたって山内を支援してきた画商の須藤一實氏によって2016年4月に開館したばかりの新しい小さな美術館です。
 今春、偶然、高校時代の仲間たちとの食事の後で立ち寄りました。木造建築の木の香りがまだ残っているような展示室で、須藤さんから画家との出会いの経緯などを伺いながら山内の作品を鑑賞しました。
 芸術館の案内書によれば、画家山内龍雄(1950―2013年)は、北海道の東部釧路に近い厚岸町上尾幌でうまれ、生涯のほとんどをその地で送ったと記されてされています。山内の父が開拓で入った土地に家を建て、その家の屋根裏部屋が息子龍雄のアトリエだったとのことです。
 作品のほとんどは「自分の足元」つまり北国の原野にぽつんと置かれた開拓者の家とその周りの自然の風物、光と影をテーマに描かれています。
 例えば、黒く塗りこめられた大きなキャンバスの中央に窓のような四角が描かれている。暗い牢獄の窓から見える空のように。
 自分の周囲をじっと見つめている修行僧のような画家が描こうとしたものは何だったのか、何を言いたかったのか、ちょっと寂しい、何かを語りかけてくるような、印象的な絵の数々です。
 私は、山内の絵からヒントを得て、扁壷の表面に窓を描き、窓から見える空を表現してみました。空は青空と夕焼け空。
 成型を終えて陶の表面が半乾きで硬くならない段階で、竹串の先で削りながら長方形の窓をふたつ描き、削った線の部分には白化粧土を埋め込んで窓の輪郭をつくる。青空は白い化粧土の上にコバルト顔料を、夕焼け空は黄色と赤色顔料で表現する。そして窓の周り、つまり部屋の壁は黄瀬戸釉に鬼板を加えて作った絵の具を筆で丁寧に塗り上げました。ちょうど左官職人が家の壁を塗るように。そして焼き上がりは・・・6月に開催する恒例のアート展で出展予定です。(2017.4.20)


■上寿碗

母は私が子供のころから病弱で、私の断片的な記憶にある母はいつも頭痛がする、肩がこる、胃の調子が悪い、というようなことを言っていて、お灸を受けたり、薬草を煎じて飲んだり、時には医者通いをしていました。また私が大学生のころには乳がんの手術を受けています。母を見舞った時に病室のラジオから流れていた倍賞千恵子の「下町の太陽」を聞きながら、母は早く亡くなってしまうのではと心配していたことを思い出します。
 その母が今夏8月21日に100歳の誕生日を迎えます。
 父方・母方のおじさん・おばさん皆さんが既に亡くなっているのに、一番病弱だった母だけがこの世に残って、呼吸をして、老人ホームの窓からの光を浴びています。若いころにあれだけ病弱だった母の体のどこに長寿の源があるのか、不思議なくらいです。
 ベッドの上に寝ているだけで、週1回見舞っている私のことも息子とわかってくれないような状態なのですが、私は枕元でしばらく母の若いころのことなどを思い出して過ごすようにしています。
 そんな母の100歳を記念して祝い茶わんを作りました。素焼きした土肌に「祝上寿」と蝋書き(*)して、釉をかけて焼きしました。蝋書きした部分には釉薬が乗らないので地肌が文字となって浮き出てきます。紫辰砂釉をかけて弱還元焼成をしたので赤紫色に発色する予定だったのですが、白い志野土を使ったためか、あるいは窯の中で空気の通りやすい場所にあったためか、焼き上がりは明るいブルーになっていました。ま、いいか。
 「上寿」とは、下寿(60歳)、中寿(80歳)に続く「三寿」の中の最高の寿齢で、百歳またはそれ以上という意味です。ちなみに99歳を「白寿」ともいいますが、これは「百」に対して一つ足らない、ことからきているとのことです。
 母の長寿記念に作った茶わんですが、母はもう老人ホームのスタッフの方に毎日食べさせていただいている流動食の食器も、私が作った100歳記念の茶わんも区別ができるような状態ではありません。
 しかし、母への感謝の気持ちを込めて、母の枕元に茶わんを飾ろうと思っています。母が穏やかな気持ちで毎日を過ごせますように。
 (*)昔は溶かした蝋で書いたことからこの名前があるが、現在は“撥水剤”を使うことが多い(2017.4.7)



神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)