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SPECIAL REPORT-旅の記録

■飯能焼を訪ねて/2014年5月


飯能焼は埼玉県の南西部、飯能市で焼かれている。
 この辺りはいわゆる奥武蔵に連なる山地を背景に開けた地域で、一級河川である入間川、高麗川に沿ってできた扇状地になっている。
 飯能焼の起源を調べると江戸時代の後期・天保年間(1830~1843)に発祥し、明治20(1887)年にかけて現在の飯能市八幡町あたり(当時の真能寺村原)で焼かれていたという。つまり約50~60年続いた飯能焼は明治20年ころに廃れてしまったのである。いわゆる幻の古飯能焼と呼ばれる所以である。
 最近では、東横線と東京メトロ、西武池袋線などが直結しているので、横浜からでも乗り換えなしで飯能まで行くことができるのだが、五月中旬の一日新緑を楽しみながらのんびりと飯能焼窯元までドライブをした。

 目指すは武州飯能窯の虎澤英雄さん(昭和10年・岐阜県土岐市出身。)虎澤さんは1975(昭和50年)に飯能焼を復活させた陶芸家として知られている。古飯能焼が廃れてからほぼ100年ぶりに再興したという方である。

 訪問予約はしないで出かけたのだが、虎澤さんは私が訪ねたときにちょうど展示室におられた。明日(5月16日)から始まるという「飯能ものづくりフェアー」への出展準備をされていたようだ。
                  茶室の前の虎澤さん→

 広い敷地に窯小屋、工房、展示室、体験教室、茶室などが配置されている。現在はガス窯を主に使っておられるようだが、往時が偲ばれる穴窯も静かに横たわっている。
 穴窯の隣には茶室があり、雑木林に囲まれて何とも風雅な佇まいである。茶室にはヒノキの板でできたデッキが設けられていて、取り囲む木々や下を流れる渓流を眺めながらの立礼(りゅうれい)もできるようになっている。
 渓谷には沢蟹がいてはやなどが泳いでいるという。



 虎澤さんは突然訪れた初対面の私に対して旧知の友のように気さくに案内してくださる。
 お会いするまでは経歴からして頑固一徹な職人肌の堅苦しい方を想像して私も構えていたのだが、穏やかで丁寧で気さくな陶芸家でほっと一安心。
 私はこれまでにも多くの陶芸家と“初対面”を繰り返してきて陶芸談義をしているのだが、話題が技術的なことになると“それは企業秘密です”というような姿勢を示され、時には堅苦しくなってしまうこともある。しかし虎澤さんは見ず知らずの私にもいろいろな話をしてくださる。気持ちの寛いお方である。

 “ここが私の研究室です”、と案内された工房の片隅の小さな部屋には釉薬の原料などが入っている小さな瓶がたくさん並んでおいてある。ぶ厚い書類などが積まれている。翠青磁と名付けられた独自の釉薬もこの部屋で開発されたのだろう。
 伝統的な飯能焼の特徴は、白絵土によるいっちん描きの絵付けである。
 「いっちん」とはスポイト状の容器の中に釉薬や泥漿を入れて絞り出しながら陶の表面に絵を描く技法、またはその容器のことを言う。
 虎澤さんにはもちろんいっちん技法を使った作品もあるのだが、五色沼(毘沙門沼)の翠の水の色に魅せられて独自の翠青磁を中心として製作活動を続けてこられたとのこと。これまでに多くの有名な公募展等で受賞をしておられるが、海外ではイタリアビエンナーレともいわれるファエンツア国際陶芸展で金賞を獲得しておられる。
 展示室にあるトルコブルーの皿や花瓶の発色が素晴らしい。明るく深いブルー。通常トルコブルーは酸化焼きで発色させるのだが、還元焼成で色を工夫しているとのこと。確かに味わい深いブルーである。

 何人かのお弟子さんが釉掛けや素焼きの準備などをしている。
 土作り、釉薬調合、成形、焼成・・・と弟子を使いながらも基本的には一貫して一人ですべてをこなしている陶芸家の生活がある。土つくり、釉薬の調合などは体力を使う作業なのだが虎澤さんは78歳の今も腰をかばいながら続けているとのこと。お元気で若い。

 ひと通り境内を案内していただいてから新緑の林に囲まれた部屋でお茶をいただきながらもろもろの話しをさせていただいた。
 突然予約もなしに訪問してきた若造(虎澤さんから見れば古希を過ぎた私も当然若造である)に対して、親しい友人であるかのように応対してくださる、また、若造の素朴な質問に対しても丁寧に答えて下さり話しは弾んだ。
 若いころ陶芸の本場、岐阜県の土岐で修業したこと、中国やイタリアへの陶芸のたび、そしてこの地に移り住んだいきさつや飯能焼を再興させたころの話しなど。そして今、後継者のこと、広大な庭の手入れのこと。飯能焼の更なる発展のことなど。

 今回の飯能焼訪問を友人たちに話しても、埼玉県下に飯能焼という伝統的な焼き物の里があることを知らない、関東で益子焼や笠間焼の名は知っていても飯能焼の存在を知らない人が多い。虎澤さんのような素晴らしい陶芸家・先駆者がいるにもかかわらず飯能焼の知名度が低いのは残念!

 インターネットで「飯能焼」を検索すると何件か検出できるのだが、「飯能市」や「飯能市観光協会」で検索しても陶芸関連の情報はほとんど出てこない。

 本屋の旅行ガイドコーナーで埼玉県関連のページを探してもまず飯能焼は掲載されていないか、記載があってもわずか数行である。
 関東近隣の有名な窯場が興された時代を調べると、大堀相馬焼(元禄年間1688~1704年ころ)、笠間焼(安永年間1770年代)、益子焼(嘉永年間1848~1854年ころ)とあるので、多少の前後はあるものの飯能焼は笠間焼や益子焼とほぼ同時代に興されたということになる。時代の流れの中でどの窯にも栄枯盛衰はあったのだろうが、飯能焼は益子や笠間のように大きく栄えてはいない。
 何故なのか?
 若い陶芸家や陶芸を志す人などを誘致できなかったのか?
 前述の「飯能ものづくりフェアー」は、陶工芸・木工芸・ガラス・染色など飯能およびその周辺のプロたちの作品が総合的に展示販売されるイベントである。今年で三回目とのこと。飯能市民会館よびその周辺で開催されるこのようなイベントが今後も続いて飯能焼の評価が上がればいいと思う。
 飯能焼は高倉陶房から最も近い伝統的な窯場なのである。
 そんなことを思いながら帰路についた。(2014.5)



神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)