春の一日、高取焼の故郷、福岡県直方市を訪ねてきた。(2015.3.21)
直方市は遠賀川の上流にあり、さらに上流には五木寛之の小説「青春の門」の舞台となった飯塚や田川の筑豊地方がある。
JR博多駅から普通列車に揺られて車窓の春景色を楽しみながら約一時間。
直方駅、駅頭に降り立つとさっそくご当地出身の名大関といわれた魁皇の大きな銅像が出迎えてくれた。大相撲の厳しい勝負師軍団の中にいて、いつも温厚な笑顔を見せてくれた魁皇は私の好きな力士の一人である。
筑豊地方は日本で最大級の炭田地帯であった。室町時代の中期ころにこの地方で石炭が発見され、その後江戸・明治・大正・昭和にかけて石炭の産出で隆盛を極めたが、1950年代後半のエネルギー革命でエネルギー源が石炭から石油に代わり1970年代に炭鉱は閉山となり今に至っている。
若いころに遠賀川の河口付近を歩いたこともあるが、小説の影響もあってか何となく遠賀川沿いの筑豊地方は郷愁とロマンを覚える場所である。石炭の産出が盛んだったころには遠賀川の水も黒ずんでいたということであるが、今は流れも清く岸辺には菜の花が咲き誇っていた。
高取焼の発祥と朝鮮陶工の貢献
高取焼は黒田官兵衛(如水)の子、長政が朝鮮から渡来した陶工、八山(日本名・高取八蔵)に命じて、現在の直方市東方の鷹取山山麓の永満寺宅間に窯を築かせ、宅間窯と名乗ったのがその始まりといわれている。長政が関ヶ原の戦いで東軍に与した功によって筑前博多の藩主として着任したのが慶長5年(1600年)で、藩窯としての高取焼が始ったのはその数年後とのこと。
現在、当時の宅間窯・内ヶ磯(うちがそ)窯・山田窯で焼かれたものを「古高取」と呼んで区別しているが、古高取が直方の永満寺界隈で焼かれたのはわずかに約20年の間だけだったという。
慶長~寛永(1596~1643)ころにひとつの流行のように各藩が直轄の窯をもつようになっている。千利休(1522~1591)によって広められた茶道で各藩主の間に流行っていた茶器づくりが主目的だったのだろうが、藩の産業振興も副次的な目的としてあったに違いない。
そして各藩の焼物づくりに大きく貢献していたのが朝鮮から渡来した陶工たちである。同じ福岡県の上野(あがの)焼は豊前細川藩の御用窯として1602(慶長7年)年に朝鮮半島から渡来した陶工尊楷(日本名・上野喜蔵高国)によっておこされ、島津藩では藩主島津義弘の命により金海という陶工が薩摩焼の基礎を築いている。また、有田では李参平という陶工がその後隆盛を誇った有田焼(伊万里焼)の基礎を築いている。
(多くの文献では、朝鮮から“渡来した陶工たち”という表現になっているが、“強制的に連行されてきた”というのが実態のように思う。但し、各藩共に陶工たちには家屋敷を与え士分の資格を授けるなど手厚くもてなしたという記録もある。藩主の趣味嗜好・施政方針によって陶工たちがどのような扱いを受けていたのか興味深いところである。)
高取焼の特徴
古高取は小堀遠州(江戸時代の大名茶人・徳川将軍家の茶道指南役)によって選ばれたという、遠州七窯(*)のひとつとして多くの茶人たちに珍重されている。
高取焼は“きれい寂び”の世界を確立した焼物とも言われ、陶器でありながら磁器のような薄さと軽さが持ち味で、正確な轆轤工程、華麗な釉薬、木目細かく繊細な生地が特徴である。茶陶としては鉄さび、わら灰、木灰、長石などを原材料に調合された茶系統の雰囲気が特徴ともいえる。
*遠州七窯とは、志戸呂焼(遠江・遠州)・膳所焼(近江)・朝日焼(山城)・赤膚焼(大和)・古曽部焼(摂津)・上野焼(豊前)・高取焼、をいう。古曽部焼の代わりに伊賀焼という説もある。
一方、同じ古高取でも内ヶ磯窯で焼かれたものは、織部好みの豪快なものが多いという。これには、古田織部とも交流のあった藩主 黒田長政の意向が多く反映されていると考えられている。
古高取発祥の地・記念碑
永満寺の丘を山に向かって更に車を走らせて上ると道端の雑木林の中に記念碑が立っている。このあたりは直方市の東方、北九州国定公園の中にあり、北九州自然休養林福智山地区、である。碑には、「高取焼発祥の地 永満寺宅間窯跡」と彫られている。書は、外務大臣 麻生太郎。
宅間窯の発掘調査によれば窯は全長16.6mで6室からなる登り窯であったとのこと。登り窯のあった場所は現在でも山里の奥深い場所である。400有余年も前にこの山奥に連れてこられた朝鮮人陶工はどのような思いで作陶し窯焼きをしていたのだろう。心境を想像することは難しい。なお、古高取を焼いていた内ヶ磯窯跡は、現在は福智山ダムの湖底に沈んでいるとのこと。
ここで一句。 「高取に 陶工の意地 偲ぶ春」
現在の高取焼
直方市東方の山のふもとで現在も陶器作りをしている窯は、昨年秋に開催された「高取焼陶器まつり」の窯元マップからみても5-6軒という程度であり、いささか寂しい。過去にはお殿様の怒りに触れて永満寺を離れていった陶工もいたという話を聞いたが、高取焼を標榜する陶芸家の中には、直方からはなれて、福岡市内や小石原(朝倉郡)などで作陶している方も多い。
伝統を踏まえながらも発祥の地で高取焼に取り組んでいる二つの窯を訪問した。
【永満寺窯】の清水筑山さんのギャラリーを訪問。
奥さんと息子さんも出てきてしばしギャラリーで話しを伺う。
清水さんはこの地で開窯した先代を継いで二代目。古高取・遠州高取を伝承しながらも、単なる伝承にとどまらず新しい釉薬の研究や、技法や意匠の創造を意識しながら製作を続けているという。ギャラリーには高取焼に特徴的な茶器などが並んでいる。
場所は宅間窯跡へと昇る山の麓。菜の花の咲く畑からも永満寺窯はよくみえる。この辺りは典型的な里山である。
【内ヶ磯窯】は伝統を引き継いで活躍している友枝觀水さんの窯である。
前述のように、内ヶ磯窯には織部焼に特徴的な豪快な作風の作品が多い。友枝さんも茶器・茶碗や花瓶などを織部雰囲気で創り焼いている。しかし、釉薬は織部焼に多い緑釉を使っているものは少なく、わら灰などの自然釉が多いようだ。
織部好みの意識的な変形(アシンメトリー・アンバランス・デフォルメ)による造形は、基礎がしっかりしていないと難しい。同心円の轆轤で壷をひいてから、へらなどを使って変形させる、熟練の技がないと趣のある造形ができない。
ギャラリーと窯を案内していただいた。窯は松の薪で焼く登り窯。窯の中までかがみこんで入って見学。
余禄
「疾風屋同人」の句会に参加(2015.3.22)
実は今回の旅で高取焼の故郷、直方まで足を延ばしたのは、“ついで”であって、主目的は句会への参加であった。しかし、道楽陶芸家の「旅の記録」となると高取焼を優先して、句会は余禄となるわけである。
疾風屋同人は友人の三谷宜郷さんが主催している俳句の会。
ネット(メール)上で参加、会費なし、作句スタイル自由、俳句の堅苦しい流儀は一切なし。普段はメールで投稿し毎月末に三谷さんがメンバーの作品をまとめてメールで返信してくれるというシステム。メンバーはお互い投句者の句趣と俳号は知ることになるが本名は分からない。
三谷さんとのお付き合いで月々投句してはや6年目になる。メンバーが集まっての句会は今年で二回目であるが私は初参加。
句会の会場は、太宰府天満宮の近く天台宗の観世音寺の茶室 天智院。
句会の前に、本堂(講堂)、宝蔵、戒壇院、等を見学散策する。
観世音寺は九州を代表する古寺で造営開始は7世紀後半といわれ、奈良の東大寺、栃木の下野薬師寺とともに天下三戒壇(戒壇とは仏教用語で戒律を授けるための場所のこと。戒律を授けられて出家者は正式な僧尼として認められる。)のひとつといわれている名刹である。また、多くの古い仏像を保有することでも有名である。本堂の手前には五重塔の礎石も残って隆盛だったころの寺の様子が偲ばれる。
茶室は境内にある天智院。
昭和15年に紀元2600年を記念して大宰府天満宮に建てられたもので、その後観世音寺に移築されたという由緒ある建築である。
句会か?茶会か?邦楽演奏会か?琴と尺八の演奏家、更に裏千家茶道の先生もお弟子さんを引き連れて参加、という華やかで豪華な句会である。
琴の音、尺八の音を聞きながら優雅に茶をいただき、食事をいただき、句をひねる。至福のひと時。境内を散歩する観光の人たちも琴と尺八の音を聞きつけて立ち寄ってくれる。
今年のお題は、「鳥」
私の句は。「鳥遊ぶ 観世音寺に 茶を喫す」
以上、春の彼岸休日を利用しての、気軽な一人旅でした。
神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)