―憧れの地にひとり旅―
序
40才代50才代のころのその気持ちは単なる夢で、“そのうちに”という程度のものであったのだが、還暦を越えて60代も後半の年齢になってくると、“元気なうちに行っておかなければ”という気持ちに変化してきた。
俗っぽい表現をすれば、“景徳鎮を見ずして死ねない”という気持ちが強くなってきたということであろうか。
そして、ついに2010年10月21日、景徳鎮に向けて一人で日本を飛び立つことになった。年齢相応に、高血圧やら前立腺肥大やら慢性腰痛症やら多くの持病を抱え、胃腸が弱く、寒さに弱く、風邪なども引きやすい私に対しては、家族たちは心配していたのだが・・・・
私が景徳鎮を訪問することになった前年、2009年の秋から冬に掛けて、旧友のMZさん(MZさんは細身で痩せていて一見弱々しく見え、また日ごろの行動が飄々としているので「仙人」というあだ名が付いている。)が、ほぼ二ヶ月をかけて中国放浪のたびにでて、帰国後“中国放浪記”なるものをメールで送ってくれていた。
MZさんのたびは東京―北京間の往復航空券だけ確保して中国に入り、あとは行き当たりばったりで鉄道とバスを乗り継ぎ各地を訪ねるたびであった。いわゆるバックパッカーである。ホテルもすべて現地交渉でもちろん予約なし。
2010年の春に、MZさんと同じく共通の友人であるMTさん(「仙人」の名付け親)と三人でわが家の庭でバーべキュウを楽しみながら景徳鎮行きの具体的な相談と準備が始まった。
私にとって、中国は何度となく訪問しているが景徳鎮は初めてである。
MTさんは現役時代に仕事の関係で上海に5年ほど住み、中国語も出来るし中国事情にもかなり詳しい。MZさんは旅なれている。二人を誘ったのだが、結局は私の一人旅になった。いささかの体調不安もあり私自身一人旅に躊躇はしたのだが、一方では陶芸の本場を“プロ意識を持って肌で感じてくる”、という目標達成には“一人で行くのがベスト”と内心思っていた。
行程をいろいろと調べた。上海経由、北京経由、陸路、空路、と検討したが、
のんびりとした鉄道のたびも考え憧れたが、今回は欲張らず“景徳鎮の空気に触れること”を主目的として空路で入ることにした。因みに上海―景徳鎮間は鉄道で約16〜17時間、北京―景徳鎮間は鉄道で約23〜24時間。限られた日程の中で景徳鎮を見て、感じて、触れて、というのでは、やはり陸路では時間的に無理があるので空路に決めた。
陳舜臣の「景徳鎮の旅」も読んだ。一応は景徳鎮の歴史、風土を学んだ。インターネットで検索し多くの情報も仕入れた。
ここで簡単に景徳鎮の概要と歴史に関して復習しておくと・・・・。
景徳鎮市のある中国江西省は中国地図の上で見ると、中国南部、上海の左奥、香港の上に位置している。人口は約150万人、このうち市街地に住む人口は約50万人で内約8万人が陶磁器関連の仕事についている。(景徳鎮1000年展資料より)
この地区は陶磁器生産に不可欠な原料、特にカオリンと呼ばれる磁器に適した白い磁石に恵まれ、古くは10世紀ころから窯業が発達してきた。そして北宋時代の景徳元年(1004年)にその元号を冠して景徳鎮の名前が誕生している。
元の時代(1300年ころ)には宮廷向けに白磁を焼き、明(1400年〜1600年ころ)・清(1600年〜1900年ころ)時代には「官窯」がおかれ隆盛期を向かえその地位はゆるぎないものになっている。中国には日本以上に多くの窯場があるが官窯(いわゆる御器廠)を持つのは景徳鎮だけである。 ↓景徳鎮市内−官窯があったあたり
韓国の青白磁、日本の有田焼などに大きな影響を与えたのもこの時代である。
生産する陶磁器のスタイルも、明るい水色が美しい青白磁(「雨上がりの晴れた空の青さ」といわれている)、コバルト(日本では「呉須」、中国では「回青」とか「天青」とかいわれている)を使用した染付けの青花、色彩豊かな装飾を施した五彩磁器(いったん高温で白磁を焼成した後に、赤・緑・黄などの“上絵付け”を施し、再度低火度で焼き付けたもの)と、時代の好みやスタイルに合わせて進化してきている。
余談であるが、私の自宅近くの茅ヶ崎市に熊沢酒造という地酒屋があってそこに「天青」というブランドの地酒がある。味はまずまずだがネイミングが良いのでときどき飲んでいる。実にこの地酒の名付け親は作家の陳舜臣さんである。
たまたま数年前に家族で訪れた宜興(江蘇省)が「陶都」といわれているのに対して、景徳鎮は「磁都」といわれているという。従って景徳鎮を訪問することによって私は中国の二大陶磁都市を訪問することになる。(ここでは「陶器」と「磁器」の違いに関する詳しい解説は省くが、ごく大まかに表現すると、陶器は土(粘土)から作るもの、磁器は石(磁器土)から作るもの。)
宜興でみた陶器はほとんどが鉄分などをたっぷりと含んだ赤土を原料にしていた。有名な宜興の「紫砂」という土である。宜興では常滑の茶器・急須のような作品が多かった。確かに中国茶の主産地である杭州の茶畑も比較的近くにある。
宜興で親しく話し合った陶工が持って帰れと「紫砂」を10kgほどビニール袋に入れてくれたので、こっそりとスーツケースに忍ばせてうまく持って帰ることが出来た。
さっそく茶碗を作って紫辰砂という釉を掛けて焼いてみたら、見事なブルーの色調が出た。日本の土では今までに経験したことのないような色調であった。紫砂という土は耐熱度が約1150℃とやや低いのだが、この程度の温度でしっかりと焼き締まり、素晴らしい出来栄えであった。
同じ赤土でもその土地土地で焼きあがり風情が異なるのは不思議である。釉薬(うわぐすり)においても、例えば酸化銅を主原料とする織部釉の調合で、わずか数%の含量の違いで発色がまったく違う、ということを経験したことがある。焼物の不思議であり奥深いところでもある。
景徳鎮の焼物の真骨頂はやはり清楚な白地の磁器に絵付けを施し、1300℃〜1400℃で焼いたものである。景徳鎮が「磁都」と呼ばれる所以である。
私の作品は陶器(つまり「土」を焼いたもの)であり、磁器(つまり「石の粉」を焼いたもの)を主とする景徳鎮の多くの作品は私の作風とは異なるものである。
しかし、世界に冠たる景徳鎮陶磁器の製作現場に足を踏み入れ、景徳鎮の風に当たれば、私の作陶に影響を与える何かがあるだろう、という仄かな期待もあった。
いずれにしても私の景徳鎮行きはこのような背景のもと実現することとなった。
成田から景徳鎮まで
北京までの往復は安い中国東方航空の便にした。往復上海経由である。ダイレクト便に比べると上海空港での乗り継ぎ時間を含め2−3時間遅い便であるが、急ぐたびではないし、成田で乗り込めば上海での航空機の乗り換えはないということで決めた。(実際には通関手続きを上海浦東空港で行うので、上海では機外に出ることになるが、これが気分転換にちょうど良かった)それにMZさんMTさんからの宿題である景徳鎮紀行の構想を練るにはちょうど良い時間だろう。
10月21日、成田発午前10時55分、北京国際空港には午後4時過ぎに定刻より30分ほど早く到着。日本との時差は1時間。
北京空港には友人の何さんが迎えに来てくれた。何さんの会社は透析機器などの医療関連用具を日本から輸入して中国で販売している。
久しぶりの北京空港である。前回私が北京を訪問したのはオリンピックが開催される前だったので、オリンピック後に空港は大きく様変わりしていた。
また、私が初めて北京を訪問したのは1990年前後だったと思うが、このころは空港から市内までは舗装の悪いがたがた道を走った記憶がある。
北京には6台しかないという何さん自慢のアルファロメオに乗って市内のホテルに到着。高速道路で一走りである。
景徳鎮前夜・・・久しぶりの北京である。
北京での宿泊は、北京三元橋宜必思酒店(IBIS BEIJING SANYUAN)。何さんの会社の近くのビジネスホテルである。一泊250元。
チェックインを済ませホテル近くのイタリアンレストランでビールを飲みながら、北京―景徳鎮往復航空券の確認、景徳鎮におけるホテルや通訳の確認、などをした。何さんがすべて手配してくれているので助かる。
仕事の話しや、家族の話など情報交換をする。来年は何さんの会社の設立20周年記念パーティーを開催するので、是非来てくれとのこと。
翌日、22日の飛行機は夕方の便なので、午前中は何さんと二人で首都博物館を見学した。この博物館は2006年5月の開館ということで比較的新しく、明らかに2008年に開催された北京オリンピックを意識して建築されたものである。
歴史と建築、民族、文化、芸術と多方面から北京の歴史と進化を紹介した博物館で、建築物としても堂々とした構えになっている。
昼食を博物館のレストランでとり、何さんと雑談しながらのんびりした時間を過ごした。
北京首都博物館で何さんと→
北京から景徳鎮へ。
夕刻5時05分発の北京空港発景徳鎮行きの便は、世界の磁都景徳鎮に向かう北京から一日一便の飛行機である。
機内に乗り込んであたりを見回す。乗客のほとんどは陶芸に携わる人々なのだろうと思う。そう思うと並びの席に座っている中国人風の二人も陶工のようにみえて来る。何かライバルのように思えてくる。
離陸するまでにだいぶ待たされる。そのうち機内アナウンスが中国語と英語であった。どうやら出発が遅れるというアナウンスなのだが、何故なのか・・・・細かいところはわからない。私は片言英語なのだが最近は耳も遠くなって特にヒアリングが苦手になっていて聞き取れない。隣の席のライバルたちと漢字の筆談で情報交換しようとも思ったが、しゃくだから我慢。
結局、飛行機は約1時間遅れて飛び立った。しばらくするとランチボックスが配られる。ブレッド&チキン&ヌードル。パンはアンパンである。つまり、鶏肉入り焼きそばとアンパンの夕食というわけである。案外美味かった。
やがて景徳鎮空港が近づくと機内アナウンスがある。窓から暗い下界を覗くと、ところどころに街の灯が見える。“ついに景徳鎮に来たのだ”という感慨に浸る。
飛行時間約2時間。景徳鎮空港には約1時間遅れて到着。寒かった北京に比較すると割合温かい。ホテルまでのタクシーの窓から夕暮れの景色を見ながら“景徳鎮の土を踏んでいるのだ”という思いを強める。
憧れの景徳鎮にて
景徳鎮1日目は曇り。
景徳鎮のホテルは、関門子大酒店(KAI MEN ZI GRAND HOTEL)。
何さんには今回の旅行は陶芸修行を目的とした貧乏旅行なので安いホテルでよい、と言ってあったのだが、景徳鎮では三本指に入るホテルとのこと。一泊508元。しかし、ホテルの部屋でシャワーを浴びたら水の流れが悪い。水道の蛇口のノブが壊れている・・・・これが中国なのだ。
少し小腹が空いていたが、今回の旅行ではともかく腹をこわさないように、常に腹7分、と心に決めていたので、そのまま寝ることにした。大きなベッドの上に横になって“ついに景徳鎮に来た”・・・・と思っているうちに眠り。何処に行っても寝つきの良いのが私のとり得である。
景徳鎮のホテル→
朝、ホテルのレストラン。飲茶スタイルのバイキングだがなるべく日本での朝食と同じものを食べるようにと思って、食パンとゆで卵、ソーセージと野菜を少々。野菜も生は怖いので茹でた中国野菜、小さな中華饅頭、そしてコーヒー。
昨日の飛行機の中と同じようにレストランの中もライバルばかりか。
陶工風の人もいる。商社マン風の男は陶器の買い付けか。イタリア人風の夫婦がいる。いずれにしても陶芸にかかわる人ばかりだろう。
朝10時にホテルのロビーで通訳の張さんと待ち合わせ、滞在3日間の行動打ち合わせをする。何さんが手配していてくれた景徳鎮のガイド兼通訳は張恵(Zhang
Hui)さん。景徳鎮の陶芸学校で日本語を教えている先生である。大阪にも友達がいて日本に一度旅行したことがあるという。
張さんは丁寧で私の訪問に備えて細かく下調べしていてくれて、ノートに日本語でぎっしりとその成果が書かれている。一生懸命準備してくれた様子が伺える。
郊外に風光明媚な場所もあるのでどうかといって来たが、今回は陶芸の勉強に来たので、陶磁器の展示してある場所と陶磁器を作っている現場を見るだけでよい、ということにした。
古窯陶瓷博覧区へ。
早速、近くに古窯陶瓷(こようとうし)博覧区があるというので歩いて向かう。林の中の道を歩いて約20分。このあたりは楓樹山地区ともいうようで楓の木が多いのだろう。幸い雨も上がって人通りも少なく散歩にちょうどよい林間の路である。
古窯陶瓷博覧区への道で→
後で気がついたことだが、私のホテルの部屋の窓から見える緑の濃い一帯が古窯陶瓷博覧区であった。景徳鎮滞在中、毎朝窓のカーテンを開くと古窯陶瓷博覧区の緑の森が見えた。
古窯陶瓷博覧区は、地図で見ると市の南西部に位置し、歴史博物館と古窯の二つの部分から成り立っている地域である。博物館には景徳鎮の伝統的な建築が移築され、その建物の中に景徳鎮で発掘された明・清時代の陶磁器などが展示され、製陶に関する歴史的な資料などが保存展示されている。
また、古窯の近くでは作房という陶磁器製作の作業場が復元されていて、そこではろくろや、絵付けなどを陶工が実際に見せている。
ろくろを使って成型したり、絵付けをしたり、精巧な彫刻を施したり、すべてが熟練の職人技である。
このあたりには何人かの観光客がグループでガイドの説明を受けながら動いている。しかし日本語は一切聞こえてこない。
明代の古い窯が再建されている。堂々としたレンガ作りの窯である。日本で言うところの登り窯ではない。調べると窯の形がイチジクや鴨の卵を半分に割って伏せたような形であることから、イチジク窯とか鴨蚤窯(おうたんがま)と呼んでいるようだ。窯の横に燃料に使う薪が山積みにされている。近寄ってみるとやはり松の木だった。
この再建された大きな窯は単にデモンストレーションのために造られたのか、それとも時々は実際に窯焼きをしているのか、聞くのを忘れた。いずれにしてもこの大きな窯に火が入って炎が上り、多くの陶工たちが騒々しく動き回り、窯が音を立てて焼けている隆盛時の様子を想像した。
古窯陶瓷博覧区を出て昼食を郊外のレストランでとる。
確かに駐車場には高級な乗用車が多く停まっており、このあたりでは高級レストランなのだろうが、何となく薄汚い。ハエが多く飛びまわっている。
腹を壊してはいけないと思い、ご飯と野菜炒めのような料理をとって簡単に済ませた。通訳の張さんは結構おいしそうに食べているが、決して美味いとはいえない味である。米もうまくない。贅沢はいえないが日本のレストランでこんな米を出したらすぐ客が来なくなってしまうだろう、と思った。
昼食後、タクシーを呼んで市内へ向かう。
市内のギャラリー街(陶瓷文化第一街)を散策する。
ギャラリーが並んでいる地区で、どの作家の店に立ち寄っても、“成型は自分でするのか?”と聞くと、必ず返ってくる言葉は、当たり前のように“外で作ったものを取り寄せて絵を描く”ということである。そのうち分業が当たり前ということが分かったので、私も聞くのを止めた。
すなわち、景徳鎮の陶芸はほとんどが分業によって成り立っているのである。粘土を作る人、粘土で形を作る人、絵を描く人、彫刻を施す人、釉薬をかける人、焼く人、皆別の人が行うのである。自ら粘土を練って成型し、絵を描き、自ら焼くという人はごく一部の人である。私が日本では、自分で粘土を練って、成型して、自分で絵を描いて、焼いているというと、皆、一応感心してくれる。
従って、概して言えることは、通常われわれが目にする景徳鎮の陶芸家は画家なのである。裏方で陶工たちが粘土を作り、ろくろで成型した食器や壷や陶板など陶磁器の表面に絵を描く人なのである。水彩画や油絵画家と異なり、画用紙(キャンバス)が湾曲したり、凸凹したりしていること、そして、絵の具が1300℃や800℃の高熱でどのように発色するか、変化するかを心得ている画家なのである。
このことは陳舜臣も「景徳鎮の旅」のなかで触れている。
印象的な作品が並んでいるギャラリーがあるので入ってみた。
湛鍼中さんの作品である。農村の雪景色、池に浮かぶ蓮の花、砂漠を行くらくだ、など、郷愁を誘う絵が陶の表面に描かれている。私の好みでもあるので名刺を出して話し込んだ。湛鍼中は景徳鎮生まれで活躍している新進の“作家”である。ちょうど中国国営の教育テレビが取材に来ているところだった。
早速私の名刺を見て日本の有名な陶芸家か批評家と勘違いされたのか、湛鍼中の作品について思ったことを自由に語ってくれという。テレビカメラを向けられたので、“伝統的で素晴らしい作品は景徳鎮に多いが、湛鍼中の作品には郷愁があり又創造性がある”と、思ったことを偉そうにしゃべった。
テレビが何時放映されるのか、聞いても仕方ないのでそのままギャラリーをあとにした。
湛鍼中さんのギャラリーで→
通り沿いの多くのギャラリーのショウウインドウには、見事な形の陶磁器もある。伝統的な素晴らしい筆使いの山水や花木を描いた作品もある。すべてが素晴らしい。しかし、多くは見慣れた素晴らしさなのである。一目見て、何か新しさを感じる、印象的である、創造性がある、心動かされる、という作品は景徳鎮といえどもやはり少ない。
何処へ行っても焼物ばかり。
芸術的なもの、大量生産品、大物、小物。これほど多くの陶磁器が生産されて、果たして消費されてゆくのか心配になるが、景徳鎮の品物は消費されてゆくのである。全体としては活気がある。
やはり世界の景徳鎮なのである。海外からのいわゆるバイヤーも多いのだろうが、発展途上にある中国全土からの需要が続いているのだろう。
聞くところによると、景徳鎮の磁器の原料となるカオリンを含んだ山も残り少なくなっているようだ。しかし、広大な中国大陸のどこかには探せば同じような山があるさ、と楽観的である。
景徳鎮3日目は晴れたり曇ったり。
ホテルを出てしばらくぶらぶらと歩くと、歩道の道端で2-3歳の男の子がしゃがみこんでウンチをしている。車が走る大通り沿いの歩道である。可愛い顔を真っ赤にして力んでいるがなかなか出てこない。傍では母親たちが立ち話をしている。田舎で育った子供の頃を思い出しながら歩いた。
しばらく歩くと広い道をちょっと入ったところに人ごみがして食品市場があった。市場の入り口でおばさんが亀に紐を付けてお客を待っている。逃げようとする亀はすぐ紐で手繰り寄せられる。亀は3匹、食用かえるがバケツの中に10匹くらい入っている。おばさんはこれだけ売れたらまた村に帰ってゆくのだろう。
果物屋が荷車の荷台いっぱいに果物を山盛りしている。みかん、バナナ、りんご、なつめ、クリ、ざくろ、いちじく・・・・・。果物の甘酸っぱい香りの上をハエが飛びまわっている。
自転車の荷台にわけのわからない煮物を広げてお客を待っているおばさんもいる。昔子供のころに見たイナゴの佃煮のようなものである。
市場の中に足を踏み入れると、干物やら訳の分からない食材がいっぱい。独特の臭気が立ち込めている。私の姿を見て“金持ち”と勘違いしたのか、豚肉(多分)の切り身の上等そうな部分を自慢げに見せて“どうだ、買わないか”という身振りをする。
汚れた水槽の中で名前のわからない魚が動いている。茹でた鶏の足が山のように積まれている・・・・。
製作現場を見学。
通訳の張さんとの待ち合わせはホテルのロビーで昼の12時。
近郊の陶芸村に親戚のあるタクシーの運転手がいるというので、そのタクシーをチャーターすることにした。200元。(もっとも景徳鎮では陶芸村に知り合いのいるひとなど大勢いるのだろうが・・・)
昨日は完成品や古いものを見ることが多かったので、今日は製作現場を見学することにした。
まずは市内で工房が集まっている地区を見学する。江沢民の字で「景徳鎮市彫塑瓷廠」と大きく書かれた陶板が工場の建物の壁にある。市内にはこのような国営の工場がいくつかあるようだ。
石膏を使って型造りをしている工房が多い。当然、大量生産品が多い。一定の型から同じものを造ってゆくには石膏は適しているのだが、私は今までは石膏での作陶は何となく“型頼り”という感じで避けてきた。どうしても必要なものは木型で代用してきたのだが、日本へ戻ったら石膏型にも取り組もうという気持ちがわいてきた。
絵筆を専門に製作している人の店にも立ち寄った。
弘法は筆を選ばず、といわれているが、景徳鎮の筆を使えば少しは絵も上達するだろうか。絵筆を何本か買い求めた。ウサギの毛だという。安い。
私の手元に数年前に日本で開催された陶芸展「景徳鎮千年展」の記念誌がある。この記念誌は一部と二部に分かれており、一部では景徳鎮の歴史的な逸品を掲載し、二部は近代の作品で、毛沢東が指示して官邸で使用する食器などを優れた職人に作らせた、いわゆる最後の官窯(「7501工程」といわれている)で焼かせたものが掲載展示されている。紅梅文・桃花文の器など美しい。成型にしても、華やかかつ優雅な絵付け技法にしても極めて高度な熟練した技術の集大成である。
その7501工程で製作された毛沢東好みの作品の中に有名な紅梅文様の食器があるが、これの写しを専門に作っているという工房もあった。描かれた線の上に赤く発色する絵の具が塗られてゆく。
店先でおばさんたちが器用に陶花をつくっている。粘土をちぎって花弁を作って、花弁をつなぎ合わせて花になる。焼いて色を付けて紐を付けてペンダントやブローチになる。お土産にいくつか買い求めた。安いものだが天下の景徳鎮の磁器土で作った花なのだ。
村の製作現場へ向かう。
タクシーの運転手の生まれたところで今も親戚がいくつかあるという、老場(ラオシャン)を訪問した。でこぼこの田舎道を走る。昨夜は雨が降ったのかところどころにぬかるみがある。のどかな風景である。
ろくろ作業の現場でプロの技を見た。
男が二人ろくろを囲んでいる。ろくろの上に大きな粘土の塊が置かれる。20kgか30kgはあるだろう。二人のうち一人は兄貴分、もう一人が弟分なのだろう。
兄貴分が粘土を回転させながら叩いて上に伸ばし中心をとって行く。弟分もこれを手伝う。この作業を“土を殺す”という。更に、兄貴分が粘土の中心に手を入れて徐々に広げてゆく・・・・。
あっという間に大量の粘土がねじ伏せられて大きな壺が出来上がる。この間5分程度だろうか。
わずか3kg程度の粘土から高さ30cm程度の花瓶を立ち上げ作るのに苦労している私にとっては、大いなる驚きである。大量の粘土をろくろの上で一気に立ち上げているが、力いっぱい汗だくでやっているという風でもない。普通に動いて普通に出来上がってゆく。そしていくつも仕上がってくる大きな壷は皆寸分と違わない寸法である。まさに職人技、プロの技を見せられた。
雑然として薄汚れた作業場で陶工が乾燥した一抱えもあるような壷を削っている。基礎の部分、胴の部分、頭の部分と別々に製作し、これをつなぎ合わせて人間の背丈くらいの大きな壷が出来上がる。ちなみに陶土の場合は半乾きの状態で、泥しょう(通称ドベという)を塗って接続するが、ここではほとんど乾燥した状態でも、接続部分に水を塗って、泥しょうを塗って、簡単に接続してしまう。接続部分の直径が寸分たがわず全く同じで、ドベで濡れた部分が乾けば接続したことはわからなくなってしまう。当然、接続した後もろくろの上でぶれることもなく同心円で回っている。
なお、粘土の削りかすは大量に発生するわけだが、これを再生する業者は別にいるようだ。削った磁器土に紛れ込んだ雑成分は磁石などで吸着して取り除くとのこと。
しかしながら、こんな薄汚れた作業場で作られたものが、1300℃の熱を通すことによって、真っ白な陶磁器になるとは。
作業場のすぐ前を流れる小川では・・・・濁った水でお世辞にも清流とはいえないが・・・、女たちがしゃがみこんで洗濯をしている。上流からは下水が流れているような川である・・・。この風景は明・清の時代とどれだけ変わっているのか、と思う。
染付けの現場はまさに絵師の技である。
通常、陶土の場合は750℃〜800℃で素焼した上に呉須等で下絵染付けを施すが、ここでは基本的に素焼はしないで乾燥した生地の上に直接下絵を描いている。下絵付けは素焼をしてからと思い込んでいた私にとっては、また新しい発見であった。
下絵付けに一般的に使用する青色の顔料「コバルト」は、日本では「呉須」、中国では「回青」とか「天青」とかいわれている。
中国で「天青」という場合の天とは青い空の「天」を意味するのではなく、回教徒たちがアラビアのことを天方と呼んでいることから、西方から来たブルーの顔料という意味であるという説がある。何となくエキゾチックな解釈である。西方との交易が活発化したといわれている元の時代に染付けが発達したといわれている所以である。
染付師たちの筆致を見ていて感じるのは、のびのびと自然に描いている。線が美しい、描く線に勢いがあり生きている。のびのびとした線は身体が軟らかい子供のころからの修行のたま物であるという。老後の手習いとは基本的に違うのである。
彫刻はこつこつと丹念な仕事である。
厚めに創った花瓶などの表面に、墨で字や模様を描き、その部分を浮かすようにこつこつと彫刻してゆく。根気の要る仕事である。
墨で字や模様を描く人は恐らくそれだけが仕事。徹底した分業であるとともに、それぞれの役割りの人たちはプロ意識を持った目をしている。
また、影青(いんちん)という表現技法がある。これは乾燥した磁器度の表面に彫刻や印刻で刻みをつけてから釉薬をかけるのだが、微量の鉄分を含んだ透明な釉薬が刻まれた部分に溜まって、これが強い還元焼成(窯の中に送り込む空気の量を少なくして言わば酸欠状態で焼く方法)により他の部分よりも青く見えるものである。これが専門家の間では“月光を浴びた青”として珍重されている。
共同の焼成窯場である。
丁度、焼成作業中で窯が音を立てて焼けているところだった。
荷車に載せたり、おんぼろ軽トラックに乗せたりして、次から次へと釉を掛け終わって焼く直前の壺などが運び込まれてくる。現場監督のおばさんは壺の底の部分の釉薬を刷毛で手際よくふき取る。(これは棚板に溶けた釉薬が流れて付かないようにする基本的な作業である。)
日本の陶芸には俗に、「一焼き、二土、三造り」という言葉がある。つまり焼成作業が一番大切で難しい、成型がよく出来ても、良い土を使っても、焼きが悪ければよい焼き物は生まれてこない、という言葉である。しかし、景徳鎮の分業の現場を見る限り、それぞれの役割りをそれぞれのプロが事も無げに仕上げているという印象である。ただ単に“焼く作業が一番大切”とは言い切れないプロ意識が、焼物が出来上がるまでのすべての製作過程にあるのだ。
3日目の最後は、三宝路の国際陶芸村を訪問した。
中国人・欧米人・韓国人・日本人などの陶芸家が共同して製作し、展示しているエリアである。全体的には情緒あるたたずまいになってはいるが、何か素人の陶芸好きを意識してつくられた感じで、どこにでもある見世物陶芸村的であまり感心しなかった。
むしろ、近くの水車小屋にあった石挽き場のほうが興味深かった。昔、九州の小鹿田の作陶場で見たものと同じであった。いや、何百年か前に小鹿田はこの方法を中国から学んでいるのだろう。もちろん現在は機械化された工場の中で石が砕かれ磁石の粉が出来上がるのだろうが。
景徳鎮陶瓷学院を訪問。
景徳鎮4日目もうす曇り。今日が景徳鎮最後の日である。
帰りの北京便は19時35分発である。
通訳の張さんが勤務している景徳鎮陶瓷学院を訪問する。景徳鎮陶瓷学院は陶芸教育を目的とする4年制の大学で、短期制の陶芸学校は市内にいくつかあるようだが、4年生の総合大学は景徳鎮唯一らしい。
市内にある旧校舎の国際交流センターで日本から客員教授として赴任しているN先生と、金鴻鉉先生に面会する。張さんは私の訪問に備えて関連の先生にその旨伝えてくれていたようだ。
N先生たちと→
N先生は気さくな方で、いろいろと話してくれる。愛知県立の窯業学校・大阪の芸術大学を卒業してから、窯業関連の仕事に就かれ縁があって現在こちらに来ているという。62歳。
現在、4ヶ月景徳鎮で教師、2ヶ月日本へ帰省、という大学との契約で、快適な毎日を送っているという。大学の給与は月4000元ということで、生活をするのに十分な給与であるという。
私との話しがあって、もし、私にその気があるならば、当校の教師に推薦するがどうか?ということになった。日本文化や、日本の芸術文化などについて話してくれればよい、ということであった。
N先生によれば、日本と景徳鎮の陶芸を比較した場合、日本の作家のほうが総合的に優秀であるという。日本の陶芸作家は、成型から焼成までをすべて自分の技量で製作しているか、または、弟子を使って製作を管理しているが、景徳鎮では分業が発達した結果、成型・絵付け・焼成とそれぞれの分野でのプロ(職人)はいるが、総合的に自分でこなす技量を持った陶芸家は極めて少ない、という。
N先生のこの意見は私も今回の旅を通じていくつかの作業現場を見て、陶工といわれる人たちと話して感じていたことである。
したがって、生徒たちにはすべての技術を学んで、世界に飛び立つよう指導しているとのこと。
N先生の案内で実習校舎を見学する。
自由な雰囲気がある。私も若い学生のろくろを手伝いたくなったが、若い先生の目があるので止めた。
市内にある旧校舎から郊外の新校舎に移動する。タクシーで約15分。
正門を入ったところには「崇徳尚学 陶治成器」と刻まれた大きな石がおかれてあった。張さんの説明によれば、「しっかり勉強して、陶磁器を治め、大きな人間になりなさい」ということらしい。
広大な敷地に、校舎、図書館、学生寮、などが建っている。さすがに景徳鎮が次世代を担う若者たちの教育に力を入れていることがわかる。
学生食堂で昼食をとる。煮物、焼物、ごはん、麺類、多くのメニューが並んだ体育館のような広い食堂で学生たちと一緒に食事。こんなにも恵まれた環境で陶芸を学べる学生たちは幸せである。
食後、市内へはスクールバスに乗って旧校舎へ。
帰りの便までには時間があるので、張さんの同僚だという市内三宝路にあるKさんの工房を訪ねた。
Kさんは日本人で通訳の張さんと同じように景徳鎮陶瓷学院で日本語の教師をしている。日本語を教えながら自らも作陶活動をしている。
何故陶芸を教えないのか、と尋ねたら、“日本語は教えれば教えるほど憶えてくれ成果がわかるけれど、陶芸はある程度までは教えられるけれど、そこから先は本人次第だから”という答えであった。
この言葉を聴いて、だいぶ前に日本経済新聞の交遊抄欄に東京芸大の澄川学長(当時)が書いていた文章を思い出した。
“かたちを作っても心が入っていないと人は感じてくれない。この心を籠めることが大変難しい。芸大では心を籠める大切さと難しさは教えても心を籠める方法はだれも教えることはできない。”
20畳くらいの広いスペースに窯が置いてあって、そのほかに二部屋、作業場と応接室、1ヶ月の家賃は6000円くらいとか。日本に比べると贅沢な空間である。窯も日本にある私の窯は約120万円したが、Kさんの窯は私のより一回り大きいが6-7万円程度とのこと。
Kさんは、磁器土を使った小さな人形やオブジエなどを製作し、年に一度は東京で個展をしたりグループ展を開催したりしている。
Kさんの工房でもう一人の日本人にあった。M電気を早期退職して陶芸留学している人である。景徳鎮は気候もよいし、物価は安いし、好きな陶芸は毎日やれるし、年末が帰る予定なのだが帰りたくないという。
来年の個展のときは是非訪問すると約束してKさんの工房を後にした。
今回は景徳鎮滞在が正味3日間という短い期間であったし、私の目的も前述のように“古今の優れた作品を見ること”と“作業現場を見ること”に絞っていたので、陶芸以外で街をゆっくり見る、景色をゆっくり見る、という余裕はなかった。
特に景徳鎮の市内を流れる「昌江」は、毎日のようにタクシーで橋の上を行き来していたのだが、その流れを眺める余裕はなかった。
現在のように陸路・空路による運送手段が発達していなかった時代には、昌江が大動脈となり陶磁器の運搬に大きく寄与していたと、いろいろな書物に書かれているのに。 大きな器の工房で→
また、今回のたびでは、景徳鎮の磁器土をろくろに乗せて自分の手で回してみる余裕もなかった。実は、前述の老場(らおしゃん)村でろくろの現場を訪れたときに、通訳の張さんが“大貫さんもやってみますか”と言ってくれたのだが、プロ中のプロの目の前で“お遊びのろくろ”など何となく気後れがし、仕事の邪魔をしたくなかったし、素人相撲が横綱の前で“しこを踏む”ような状況だったので、誘いには乗らなかった。
以前、日本で何回か磁器土を使ったことはあるが、日ごろ自分が使っている陶土に比べて磁器土はねっとりとして、腰が定まらない、という印象がある。
ろくろに関しては、陶土の場合は少しくらい中心がぶれても何となくごまかしがきくが、磁器土は腕が確かでないと難しい、というのが私の印象である。陶芸を志す以上、使用する粘土の性格・くせを良く心得ることも必要であると私は考えている。
滞在中、私のような日本人旅行者を一人も見かけなかった。会えた日本人は景徳鎮陶瓷学院に関わりのある3名だけであった。昼間は通訳の張さんがいてくれたので何となく心強かったが、仮に通訳がなかったとしたら心細いたびであったと思う。それを思うと冒頭紹介した旧友の仙人MZさんはすごい。ほぼ60日間にわたって一人旅を続けたわけだから。
再見・景徳鎮。
帰路、景徳鎮発の北京便は19時35分発である。
空港に早めに着いてビールでも飲もうかと思っていたが、新しい空港でレストランなどは未だ開いていない。小さな売店がひとつあるだけ。北京空港に迎えに来てくれる何さんに地元の菓子を一箱買って機内に乗り込む。
待合室でも感じていたが多分日本人は私一人だけだろうか。欧米系の人が数人乗っているが、土産用の大きな陶磁器の箱を機内持ち込みで幾つも抱えているのはほとんど中国人のようだ。機内では元気な中国語が飛び交う。男も女もうるさいくらいだ。これが、経済が上昇傾向で豊かになりつつある中国の全土に景徳鎮の美しい磁器が広がってゆく現場なのだろう。伸び盛りの中国の活気を垣間見る感じである。
折りしも、9月8日の尖閣列島での海上保安庁巡視艇と中国漁船との衝突に端を発し、日中関係がギクシャクし学生のデモ活動などが中国各地で起きているという時期であった。“中国ひとり旅は危ない・・・”と心配してくれる人が何人かいたが、私は全く心配しないで出かけ、結果は何ら心配するような出来事もなく、個人的に日中民間友好関係の強化に寄与してきたという思いである。
国家間ではいろいろな問題が発生しても、人間は人対人で交流する限り、必ず分かり合えるし、よい関係が生まれるものと確信している。
そして日本から離れて好きな陶芸に打ち込んでいる人たちのことをうらやましいと思った。私のようにあれもこれもして見たい、と欲張って、結局どれもが中途半端になってしまう・・・。つまりひとつの事に打ち込んで集中するだけの覚悟ができていない・・・。あれもこれもと毎日忙しくしている人間から見ると、異国に一人で移り住みひとつの好きなことに打ち込んでいる勇気を素晴らしいと思った。
それにしても、中国人は、何故、あんなにも汚れた雑然とした田舎村の作業現場から、汚れの一点もない端正な美しい焼物を創ってしまったのだろう。
100年前、500年前、1000年前の田舎村と陶工たちの汗を想像しながらそんなことを思い、北京に向かう飛行機の中でうとうとしていた。
(文中、日本人名は略号で、それ以外の方は実名で記載した。2010年晩秋)
神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)