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SPECIAL REPORT-旅の記録

■笠間陶炎祭(ひまつり)/2011年5月


私の手元に相馬焼きの“木の葉皿”がある。網目模様の地肌に葉脈の切り込みが勢いよく入って、そこに灰釉が溜まって、やや青っぽい焼き上がりの皿である。何年か前に鵠沼画廊のご主人、田中義和さんから頂戴したものである。田中さんが懇意にされていた大堀相馬焼「北双窯」の伝統工芸士、吉田重信さんの作品である。
 五月の連休前のある日、藤沢駅南口の鵠沼画廊に立ち寄って田中さんと雑談した。当然話しは東日本大震災のこととなり、相馬焼の吉田重信さんと連絡が取れないとのこと。吉田さんの住所は福島県双葉郡浪江町、テレビや新聞で報道されているように、原子力発電所から20km圏内で警戒区域に指定されている場所である。
 一方、私は朝日新聞の夕刊で益子焼・笠間焼・相馬焼などが大打撃に遭遇したが、五月の連休に予定している益子の陶器市、笠間の陶炎祭(ひまつり)ともに、4月29日から5月5日まで予定通り開催する、そして、相馬焼の作家も笠間と技術交流を重ねてきたので笠間の陶炎祭に参加する、という記事を読んだ。何となく被災された方々の応援を兼ねて陶炎祭見物に行って見たいと思っていた。
 このことを田中さんに話したら、“吉田さんの消息を確認かたがた是非行って来てくれ”と言うことになった。今回の大震災に対しては、ささやかな義援金を出すだけで何となく申し訳ないような気がしていたのだが、笠間に出かけ相馬焼の陶工たちに会うことが出来れば、何らかの応援活動が出来るのかな・・・という気持ちもあった。直接、田中さんの友人吉田重信さんに会えるかもしれない。
 そんな経緯で5月5日こどもの日、私は一人で上野発8時30分の電車に乗り込んだ。                      吉田重信さんの木の葉皿

常磐線車中で
 まずは電車の中で改めて福島・茨城・栃木三県下にある陶芸の里の歴史を復習する・・・。
 相馬焼(福島県双葉郡浪江町)の始祖は、元禄3年(1690年)奥州相馬領大堀村(現在の浪江町大堀)の半谷仁左衛門(休閑)の下僕、左馬という人が陶器作りを志し、相馬藩窯の陶工として技法を発展させた、とある。
 笠間焼(茨城県笠間市)は、江戸時代中期・安永年間(1772~1781年)に、箱田村(現在の笠間市箱田)の久野半右衛門が、信楽の陶工・長右衛門の指導で焼物を始め、窯を築いたのが始まりといわれている。
 益子焼(栃木県芳賀郡益子町)は、江戸時代嘉永年間(1848~1854)に常陸国笠間藩で修行した大塚啓三郎が益子に窯を築いたことにより始まるとある。
 ということは、比較的近隣の三県下にある三つの窯場は、どうやら福島県の相馬焼、茨城県の笠間焼き、栃木県の益子焼という順で発展してきたようだ。同じ江戸時代に始まってはいるが相馬焼が100年ほど早く始まっている、ということに気がつく。私にとっては新しい発見である。
 これらの陶器産地では終戦後(1945年~1950ころ)、プラスチック製品などの流入により生活雑器類の生産に陰りが見えてきたが、工芸製品への転換を推し進めることによって更なる発展を続けてきたという。盛衰の歴史に関しては他の多くの陶器産地と同じ経過をたどっている。笠間は美術工芸製品への方向転換がうまく遂行できた町のひとつだろう。むしろお隣の益子焼よりも最近では新進の陶芸家が多いのではないかと私は思う。
 常磐線からJR水戸線への乗換駅友部に近くなると、車窓から見える民家の屋根のところどころに青いビニールシートが被さっている。ああ、大震災の爪痕なのだと思う。ビニールシートが被されているほとんどの屋根が重い陶器瓦の屋根である。

笠間にて
 友部でJR水戸線に乗り換えて2駅、10分足らずで笠間駅に到着。改札口を出ると駅員が街のガイドマップを配布している。駅前ロータリーにはちょうど市内周遊バスが待っていてくれたので飛び乗ってまずは陶炎祭の会場へ。
 天気は曇り。寒い。5月というのに朝の天気予報では気温は3月下旬並みとのこと。かばんの中に入れてきたアンダーウエアーを一枚重ね着する。
 陶炎祭(「ひまつり」と読む)は広大な笠間芸術の森公園一帯を使って開催されている。公園内には茨城県陶芸美術館、笠間工芸の丘館、匠工房笠間(県窯業指導所)などの施設がある。笠間市の陶芸にかける意気込みが感じられるエリアである。
 笠間の陶炎祭は、1982年(昭和57年)に始まり、今年でちょうど30回目の開催となる。広い展示会場イベント広場には案内図で見る限り200個ほどのブースが出来ている。恐らく同じくらいの人数の陶芸家たちが展示しているのだろう。この祭りも今日が最後ということで多くの見物客・買い物客が来ている。

伝統工芸士・吉田重信さんの消息
   会場ではまず相馬焼のブースを尋ねる。広い会場で見取り図を頼りに訪ねた相馬焼のブースには大きな壷が一つ置いてあるだけで展示品がひとつも無い。そうか今日は7日間続いた陶炎祭の最終日、全部売切れてしまったのだ。他の笠間焼の作品とは異なり、相馬の陶芸家たちは着の身着のままで避難しトラックに積み込んだ作品もそれほど多くはなかったのだろう。(新聞報道によると5月7日現在、相馬焼のある浪江町は福島原発から20km圏内で「警戒区域」に指定され、今なお約17,790人が避難中、43名が死亡、行方不明が約140名ということである。)
 作品は無いのに長い人の列が出来ている。ひとりの陶工が白い紙に相馬焼きのシンボルデザインである“野を駆ける馬”(走り駒)を描いている。一枚1000円、そうだ震災義援チャリティーなのだ。絵を描く陶工の横に大堀相馬焼伝統工芸士・長橋明孝という名盾が置かれている。朝日新聞にも掲載されていた長橋明孝さんである。
 大勢のチャリティー希望者を相手に長橋さんが忙しそうに野馬絵を描いている。長橋さんに話しかけられるような雰囲気ではない。近くにいた女性に相馬の方かと確認し、吉田重信さんの消息を聞いた。“吉田さんは避難しているけれど元気のようですよ。今朝も長橋さんと電話で話していたようですよ”とのこと。まずは安心。この旨画廊の田中さんに報告しよう。
 会場にいる相馬焼の陶芸家は長橋さん一人。頑張って静かに野馬絵を描いておられるが心中は如何ばかりか・・・・。長橋さんも東京の親族のお宅に避難されているとのことで笠間には東京から出張しておられるようだ。自分の仕事場が天災で壊されて、さらに人災で近寄れない、そして、普段であれば粘土の表面に描く野馬の絵を今は紙の上に描いておられる。長橋さんの活動に敬意を表すとともに相馬焼の皆さんのより早い復興を願うばかりである。
                        相馬焼花瓶と長橋明孝さん
雑踏のなか展示場をぶらぶら
 人気のあるブースには、何か新しいもの、他とは違うものがある。もちろん素人好みと、玄人好みとがあるが、最近は素人の方も見る目が厳しい。
 例えば、伝統的な信楽焼風の焼き締め作品や備前焼風の作品もあった。しかしここは笠間である。やはり笠間の特色ある作品に目が向いてしまう。素晴らしい作品でもあまり人だかりはしていない。
 私は陶芸作家の個展会場などを訪問して作家と話すのが好きである。話すことによって技術交流が出来るし、何といっても陶芸をする人は皆純な人が多いのでその生き方を聞くだけで楽しい。そして一つでも新しい情報があればその日は進歩があったと思うようにしている。しかし、このようなお祭りでは作家もゆっくりと話し込んでいる余裕がない。
 以下、私の趣味で興味深かったブースをいくつか紹介しておこう。

                          ひまつり会場
佐藤りぢゅうさんの「青」
 明るい青で重厚なイスラム風の作品を展示している「佐藤りぢゅう」さんのブースに立ち寄る。青はこのところ私の興味のある表現方法なので佐藤さんと立ち話をする。トルコ青釉を自分で調合した苦労ばなしをすると、市販のものでもいい色が出ているがやはり何回もテストピースを使って試し焼きをし、自分なりのものを探すことが大切とのこと。佐藤さんの作品は青の発色も素晴らしいが成形に力強さを感じる。その結果、明るい青だが渋さも感じる。
                        佐藤りぢゅうさんの作品
織部茶碗の割り高台
 織部の茶碗で高台が面白いものを記念に買った。抹茶茶碗の高台のひとつの形として「割り高台」がある。通常は高台の内側を円形に削るのだが、割り高台は削らないで十文字に欠き割るのでこの名前がある。この作品はやや小ぶりの普通のお茶碗なのだが何となく斬新で面白い。そして織部の緑とデザインも自然でよい。作家の名前を聞くのを忘れた。私はこういう場所では、作りや、デザイン、色彩などが作陶のヒントになりそうなものを買うことにしている。
                        割り高台の茶碗
丹精込めた草木花絵
 四季折々の野の花・樹木花を綺麗に写し取っている作品があった。炭化還元系の黒をバックに桜や野の花が丁寧に描かれている。花びらや葉の輪郭をひとつひとつ丁寧に刻んで、そこに絵の具を塗り込んでいく。しかし丁寧に綺麗に書かれていても訴えるものが無い作品もある。どうしてなのか?難しい。

氷流文と彩紋器
 棚橋修二さんの作品が面白かった。氷流文という独特の雰囲気を作り上げている。白化粧土(の一種)に細かいひび割れを意図的に作り焼き上げたものである。私の好みの作風ではないが手が込んでいて興味深いので棚橋さんとしばらく話し合った。棚橋さんは笠間生まれだが京都の陶工技術専門学校を卒業され活躍している新進の作家である。今回はお兄さんの進さんと共同で展示されている。進さんの彩紋器(象嵌と色彩とを組み合わせたモダンなデザイン)も素晴らしい。

草木花陶板                   大貫博之さんの陶板
 私と同姓の大貫博之さんの作品が印象的だった。お祭り会場のブースでもいいなと思っていたのだが、笠間工芸の丘内のギャラリーでも大貫さんの作品が展示されていた。桜、タイサンボク、キキョウ、椿の花を描いた大きな陶板である。その他四季の草花などを描いた作品が多数。陶芸というよりも日本画である。同姓のよしみで挨拶したかったが、作家不在であった。又改めてお会いして製作の苦労話を伺いたい作家である。

 笠間市および近隣の小学生が作った土面展示コーナーがあった。それぞれが自由な発想で製作した土面を登り窯で焼いたものだという。プロ顔負けの個性的なものもあった。小さな頃から陶芸に親しむためにこのような発表の機会を作ることは大切なことなのだろう。子供のためにもまた将来の町興しのためにも。

散歩気分でギャラリー見物
 ひと通り会場を周ったあと、陶炎祭会場のとなり「笠間工芸の丘」の前の芝生で弁当を買って食べた。うす曇で寒いが雨が降る気配は無い。陶炎祭会場を後にして帰りは駅まで歩くことにした。地図を見ながら「ギャラリーロード」から「やきもの通り」経由で駅まで。
 途中に「陶の小径」などという一角もある。遠くから眺めるとこの辺りは起伏に富んだ山里でその昔登り窯や穴窯を作るのに適した地形だったのかと思う。
 道路は渋滞し車がつながっている。連休を利用してのドライブの人たちだろう。私は道路沿いに歩いているのだが他に歩いている人は意外と少ない。道端にタンポポが咲いている。表通りからは震災の痕はほとんど分からないが、ところどころに倒れた塀の大谷石やブロックが片付けて積み上げてあったり、古い民家の壁が崩れていたりする。

 ギャラリー通りには小奇麗な建物が並びそれぞれがギャラリーになっている。回廊風に出来ているギャラリーに入ってみた。中庭があって植栽があっていい雰囲気。回廊に沿って多くの作家たちの作品が並んでいる。ごった返しているお祭り会場とはまた違ったギャラリーの静かな雰囲気である。
          ギャラリー回廊の中庭→


 やきもの通りを歩いていて、おくだ製陶という看板のある窯元に立ち寄った。200年以上続いている窯元であるという。大勢の陶工のための作業場もある、陶芸教室用のスペースもある、展示場もある。奥まったところには登り窯も見える。展示場入口のお買い得品コーナーで製作(色)見本になりそうな小物を買う。赤土に白化粧土をかけて半乾きの状態で花などの図柄を線刻し、下絵の具を施し透明釉を薄く掛ける。赤土の味が出て素朴な雰囲気に焼き上がる。
 ちょうど庭に出てきた陶工の方と話し合った。
   笠間の陶芸には伝統はあるがあまり伝統を固守するという姿勢はない、作家の自由な発想と創作意欲を制約するところがないのが笠間の良いところです・・・と語っておられた。また隣の益子の土と比べて笠間の土は腰が強いので割合薄いものが可能とのこと。
 全国の窯場で五月の連休に陶芸祭りを開催することは多い。隣の益子でもこの時期に同じように陶器市を開催しているはずである。
 私は今回初めて”陶芸祭り”に参加した。こういうお祭りは掘り出し物を探したり、多くの作品を見て楽しむ、という目的のためにはいい機会ではあるが・・・作家とゆっくり話し情報交流を図る、という目的には適していないと思った。
 今回は笠間稲荷に立ち寄ることもなく、魯山人ゆかりの春風萬里荘に立ち寄ることもなく、帰路についた。


神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)