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MEMORANDUM-陶房雑記帳2015年4月

■自分の世界で創造する

私は陶の表面によく絵を描きます。花だったり人物・風物だったり。その絵は目の前にあるモデル(庭で採ってきた椿の花や旅先での写真やスケッチなど)を具体的に描いたものです。細かい作業になるので仕上げるのにかなりの時間がかかります。
 ときどきもっと自由な発想で対象物に拘らないで描きたいと思うのですが、それができません。具象に拘らないで自由な発想で描くということはなかなか難しいことなのです。
 そんな折、2歳と8ヶ月になる孫が子供アート教室で作品を制作。
 結構な出来映えです。(爺ばか?)
 Kids ART Studioで指導されているセキネトモコ先生の話が興味深いのでここに紹介させていただきます。

 “具体的に描くことが悪いのではないのですが、今の日本の教育は答え、正解を教えることが多く、絵を描くのも上手に綺麗に描くと褒められる。いい子になることは簡単ですが自分の世界で創造する力がなくなりがちです。小さい子供達にはあたりまえの感覚なのですが、成長するにつれて周りの目や常識を気にして「誰もが良いと感じるわかりやすいもの」を目指してしまい、自分のための制作が出来なくなってしまうことが多いようです。”
 “自由に創作したものが何に見えるか、ではなく「造形そのものの魅力を感じる感性」を子供達はもっています。こういうときに周りの大人が「何を描いたの?」と問い詰めると戸惑ってしまう子がたくさんいます。反面また、そこから見えるインスピレーションで物語をひろげていく事もあります。自由に描く環境を与えていれば、具体的にお花を描いたり、おもいきり絵の具を飛ばして遊んだり。”
 “子ども達には自分で発見して、考えて行動することが出来るようになってほしい、正解の存在しない自分の世界を広げ、自分の本当に表現したいものを発見してほしい。作品ではなくアートな思考の体験が後に社会でも役立つであろうと考えています。”

 さて大人の私はというと。
 夢中になって作陶しているときはけっこう多いのですが、“自分の世界で創造しているか?”というと自信がありません。雑念が入って幼児のような自由な発想ができにくい。更なる修行が必要、ということですかね。(2015.4.21)



■光則寺の鎌倉彫

鎌倉長谷にある日蓮宗の寺院、光則寺本堂の格天井が鎌倉彫で飾られることになりました。鎌倉彫は鎌倉を代表する伝統工芸品で、鎌倉時代に中国宋から伝来した紅花緑葉(堆朱の一種)を真似て仏具を製作したのが始まり、といわれています。
 光則寺本堂の改修にあたり、格天井を鎌倉彫で飾るということになり、鎌倉彫刀華会のメンバーが分担して136枚を仕上げ奉納したというものです。そのうちの一枚を友人の西村真紀さんが担当し、天井の格子に収まる前に本堂に展示するという案内をいただいたので、さっそく見学に行ってきました。(2015.3.29)
 光則寺は四季ごとに美しい鎌倉有数の花の寺としても知られています。境内には樹齢200年とも言われている海棠の花もほころびかけていました。参道の桜ははや満開になっていました。
 鎌倉の寺を鎌倉彫で飾る、鎌倉ならではの企画であり、作品は何十年、何百年とこの寺に残るであろうし、刀華会のメンバーにとっては歴史に残る名誉なことだと思います。西村さんの解説で本堂に並べられた136枚をしばし見学。
 彫られている絵のテーマ(モデル)はすべて光則寺境内に咲く花と孔雀です。(光則寺境内には孔雀が放し飼いになっているのです。)
 花は木蓮・海棠・石楠花・蓮・椿・梅など。そして西村さんの作品は孔雀の羽の文様。すべての作品は国産の桂(かつら)の一枚板を彫って、国産漆を塗ったといういわば純国産の一級品です。
 今回は、天井に収まる前に本堂に並べて展示して鑑賞できる、というもので、すべての作品が天井に収まって一般公開されるのは今秋11月2日から12日までの期間限定、ということです。(通常、光則寺の本堂は一般の見学者は入れません。)
                 光則寺の海棠の古木

 一枚一枚の作品の裏には作者のサインが入っているのですが、天井に収まってしまうと誰のものかわからなくなってしまいます。西村さんの作品(孔雀)は、本堂天井のご本尊に向かって右端の列の手前から4格子目に収まる予定です。11月にまた訪問し、鎌倉彫がいっぱいの天井を拝観したいと思っています。(2015.4.7)



■須恵器の里(その2)

大宰府の観世音寺での句会が終わって福岡空港までの途中、大野城市にある須恵器の里(国指定史跡牛頸須恵器窯跡)に立ち寄ることができました。以前、友人の三谷さんから報告を受けていた場所です。(陶房雑記帳2013年10月参照)
 国指定史跡牛頸(うしくび)須恵器窯跡は満開のミモザの花が咲く丘にありました。窯は全長11.59m、最大幅2.03m と大型で、多孔式煙道窯とのこと。現代の登り窯などのように房(部屋)がいくつもある、というものではないようです。
 調査によればこの地区(現在の大野城市から春日市・太宰府市を含む東西約4km、南北約4.8kmの範囲)には総数500基をこえる窯があったとのこと。それらの窯は6世紀ころに朝鮮半島から渡来した多くの陶人によって作られ、9世紀にかけて操業された須恵器を焼く窯群だったわけです。当時のビジネスとしての須恵器生産が相当大がかりだったことが推測されます。
 窯の型も、6世紀から7世紀ころは、大型の多孔式煙道窯が多かったようですが、7世紀中ごろから8世紀にかけては、長さが3-4m 、幅が80cm というような小型の直立煙道の窯が多くなっている、とのこと。初めは共同窯として大量生産品などを多く焼いていたが、次第に窯焼きにも変化が出て個性的な焼き方を求められるようになって、“自分の窯で焼く”陶人が多くなったということだろうか?
 それにしても限られた地域で500基もの窯があったということは、毎日のようにどこかで窯焼きの煙が上がっている、というような風景があったにちがいない。
 窯跡を見て、このように当時のことを想像するだけでも楽しいものです。
 豊臣秀吉による朝鮮出征(文禄の役~慶長の役、1592~1598年)の後に、朝鮮から連行した陶工たちによって西日本における陶磁器生産の基礎が築かれた、ことを知る人は多いでしょうが、それより更に1000年もまえに朝鮮半島から渡来した多くの陶人によって須恵器が作られていたということを、私も三谷さんからの報告で初めて知りました。
 牛頸須恵器窯跡群は大阪府堺市の陶邑窯跡群、愛知県の猿投山窯跡群などと並び日本最大級の窯跡群といわれている。(2015.4.7)

                  牛頸須恵器窯跡










神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)