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MEMORANDUM-陶房雑記帳2016年5月

■プロの分業と作家

先日、柿右衛門窯を特集したテレビ番組を見ていたら、インタビューで酒井田柿右衛門(14代)さんが、“柿右衛門窯は完全な分業で成り立っているのです”と話しているのが印象的でした。
 色絵磁器は、私の知る限りほとんど分業によって成り立っています。
 世界の磁都として有名な中国の景徳鎮でも、粘土を作る・成形する・上絵下絵を描く・絵の具の顔料を作る・彫る・釉薬を作る・釉薬をかける・窯焼をする、すべての作業段階が熟練したプロによる見事な分業によって素晴らしい作品が生み出されています。(当ホームページ「旅の記録・景徳鎮の旅」参照)
 しかし、誰が創った作品かというと一般的には、展示会などで絵を描いた人の名前だけが出て、他の作業をする人たちは陰の人になってしまうわけです。
 そして絵を描いている中心人物も、“分業”で創ったということをあまり言いたがらないような気がします。

             景徳鎮の大壷成形の職人

 そのような背景があるものですから、私は柿右衛門さんの“完全な分業で・・・”という言葉にフェアーな印象を受けたわけです。
 もちろん柿右衛門さんは伝統ある柿右衛門窯の総責任者、いわばコンダクターという立場ですべての製作過程に影響力を持つわけですから、わざわざ分業と言わなくてもよいのかもしれませんが、各パートのプロたちを誇りに思っているからこそ言える言葉であると思います。
 一方、成形から絵付け・施釉・窯焼まですべてを一人でこなしている陶芸家がいます。 自然釉による焼締め陶を専門にしている陶芸家には土作り・薪作りから窯焼きまですべてを一人でこなしている方もいます。
 この人たちは一般に「作家」と呼ばれています。
 私はどうかというと、粘土は出来上がったものを仕入れている、絵付けの顔料は出来上がったものを仕入れている、釉薬は主要な2-3種類は自分で調合していますがほとんどは仕入れている、ということなので、さしずめ道楽作家、というところでしょうか。(2016.5.30)


■あるべき場所で活きる

高校時代の同級生たちと鎌倉で食事した後、駅まで歩く途中でちょっと寄り道をして和菓子の名店「美鈴」に立ち寄りました。美鈴は宝戒寺の近くの住宅街の細い路地を入ったところにあります。
 ほとんど予約注文だけのような小さな店なのですが、残っていた季節の菓子を一つみやげに買い、店頭に置いてあった「鎌倉春秋」(2016.4月号)を一冊いただきました。 帰りの電車の中で読んでいたら「みほとけ・長谷の大仏の見時」(竹山道雄)という題で 興味深い記事が載っていたので、ここに引用記載しておきます。

 “すべての芸術品は、作者が意図した条件の中におかれて見られなくてはならない。例えば、薬師寺の聖観音などは、現地で見ると痩せて清らかなまことに崇高な姿だが、 東京のデパートで蛍光灯に照らされて陳列されていたときはさながら脂肪太りの有閑マダムのごとくで、大いに幻滅した。
 すべての仏像は、幽暗の中にいて、ゆらゆら揺ぐ蝋燭の光に照らされて見るように作られている。(中略)長谷の大仏はいまは露座になっているけれども、もともとは伽藍の中に坐っていた。(中略)この大仏ももともとは、そのあるべき位置にあって、あるべき姿を示していた。 すなわち、幽暗の中にあって揺らめく蝋燭の光の中に浮きだしていた。”

 この記事を読んで、「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」(与謝野晶子)、を思いしました。大仏様にしてみれば青空の下に居て美男とみられるのは本意ではない、と苦笑しておられるのではないかと、私も妙に納得したものです。

 同じ日に。藤沢駅前のデパートで華展が開催されていたので覗いてみました。
 私が生け花に興味を持っているのは、まずは花器を観ることです。花器の作りは?花とのバランスは?花が生きているか?なんてことを感じながら見ていると結構面白いものです。
 この日の華展でも、器としては何の変哲もない、たぶん普段はまったく目立たないものだけれど、花と一緒になって素晴らしい存在感を示しているな、と感じるような花器がありました。 一方、花器としては面白いけれど、花が生きていないな、と思えるような作品もありました。(2016.5.3)



神奈川県藤沢市高倉815-2
(小田急線長後駅東口徒歩7分)