鎌倉の夏

寺までは、いくらか遠すぎた。京都にあるような寺と比べればたいした寺ではないが、参道が長いせいか、実際以上に奥行きのある、大きな寺のように感じられる。
山門は萩の木で覆われていた。真夏の蝉の鳴き声と相俟って、うっとうしいだけにしか感じられなかったが、一時の木陰に入られた涼と、あとひと月もすればこの樹々が真っ白な萩の花で彩られることを想像すれば、堪えられないこともなかった。

境内には人っ子一人見当たらない。もっとも、本堂には誰かしら仏門の前で手を合わせたり、毘沙門天にご利益を求める者が数名ぐらいはいると思われた。
境内の横には真っ赤な花を咲かせるサルスベリの木があった。
その花を目当てにか、いつもマルハナバチがぶんぶんと飛び回っていて、私はその木のそばを通るのが嫌いだった。

参道から門をくぐる左手に、ガラス窓のついた小屋があった。だいたいは年老いた爺さんがその中に座り、参拝料として百円を徴収する。私が「お参りに来るだけなのに、お金をとるのかい?」と言いながら百円玉を手渡しても、先方は応えない。年をとって耳も遠くなっているし、精力のつかい方が他にあるからだろう。

その日、私はいつもより労力を覚えた。駅から歩くのと違って、由比ケ浜からここまではかなりの距離だったし、八月十三日といえども、残暑というにはあまりに暑すぎたからだ。木陰と一服を求めて本堂横の喫煙コーナーに足を運び、今では毛虫のために咲いているような桜の木に下に腰掛ける場所を見つけるつもりだった。

静寂の中で、蝉の鳴き声がせわしなく喚き起てる。その騒音と今までの陽射しで、私は女の息遣いも、視線も、その存在さえも感じられなかった。
ただ、それがうるさすぎず、熱すぎなかっただけのことではあるが、人知れず人を観察する術を、彼女が身につけていたからに違いない。

とにかく眼を凝らしてみると、桜の木の下のベンチの上に、その女が腰掛けていた。
つばの大きな白い帽子をかぶり、水色の生地に白と薄いグリーンのドットの入った、ノースリーブのワンピースを着ていた。清流の上に、かすみ草の花束を散らしたような模様だった。足元は、麦わらで作ったようなサンダルだった。女は微笑みを浮べた。若い女だが、学生ではない。初めて見る女だ。希に見る美貌の主だった。

「煙草はお好き?」単にさばけているのとも違う、鎌倉特有の、よそ様と接するときの挨拶のような言い草だ。その声は、保育園で子供を相手にするとき、そう、保母さんの言い方に似ていた。

「大嫌いさ」私は答えた。「体にちっともいいことなどない、お金もかかる。しかも今では、吸う場所でさえ制約を受ける」

「じゃあ、なぜ吸うの?私は嫌いなことはしないわ。好きだから吸うの、おいしいから」彼女はポーチの中からセーラムライトを取り出した。

私は肩をすくめた。「我慢もしなくちゃならないんだ。節煙すれば、体調にも影響する、食欲もでる。それ以上に適切な理由は思いつかないね」

「でも、思いつけるはずよ。東京の人なら」

「僕は東京の人かい?」

「きまっているでしょう。あなたが萩の木のそばを顔をしかめて歩いているのを見たわ。それでわかったし、それと、蜂が嫌いでしょ?あなた」

彼女に注がれた私の視線は、いかにも物欲しげだったと思う。が、相手は気にする風でもなかった。

「あなた、由比ガ浜のビラの方に泊まってるんじゃない?そんな顔をして、寺巡りをする人いないもの。わたしはヒルサイドの村岡恵子」

私の顔は、かすかに引きつったに相違ない――ああ、あなたがあの女か、とでも叫ぶように。

彼女はそれに気づいたと思う。彼女なら、たいていのことに気づくだろう。おそらく、すべてのことに。
だが、底知れぬ深みをたたえたあの黒い瞳には、あえかな翳ひとつささなかった。

「あの、丘の上の豪邸か――あれなら見たことがある――遠くからだが」

「じゃあ、もっと近くから見て、びっくりするといいわ。わたしのところで、お茶でもいかが?その前に、お名前をうかがっておこうかしら?」

「三上だ。三上祐次」

「堅実で素敵な名前ね、三上って」彼女は言った。「少々退屈でもあるけれど、でも、これからお付き合いいただくわずかな時間のあいだは、我慢することにするわ。火を貸してくださる――ありがとう、三上くん」

火をつけてやったライターの私の手に、彼女は両手をそえた。が、その仕種で我に返ったのか、用心深そうに私と距離を取り、ベンチに座り直して足を組んだ。わたしは女王様、あなたは単なる火を点けるための給仕よ、と言わんばかりだった。

「マナーを心得ているようだね」

女は細い眉毛を吊り上げて見せた。
「火の借り方のこと?それは時と場合によるわ。いい人ばかりに出会うとは限らないし。それによって、マナーも変わってくるというわけ」彼女は細い煙を吐き出した。「でも、あなたには関係ないでしょう?」

「さあね」私は答えた。「あるかもしれない」

女は笑い声をあげた。あとで気づいたのだが、彼女はめったに笑わない女だった。

ベンチに腰掛けている私と彼女の位置は、ほんと二十センチぐらいのところだった。彼女の肩に触れたかった。なぜだかわからない。彼女が、さわってもらいたがっているような気がした。それも、なぜだかわからないが。

「あなたもマナーを心得ていそうじゃない。わたしにはわかるわ」

「さあ、どうだかな。僕のマナーは、機敏さでは猫に優るとも劣らない。でも、鈍重さは牛並みだ。でも、必ずといっていいくらい場違いでね」

彼女の煙草の先は空を向いている。吸っているというより、ポーズを取っている、といった方が正しいかもしれない。

「あなた、わたしの気を引こうとしているのかしら」

「ああ、そうらしい」

あれは、彼女の足元を飛び回るアブのせいだった。
私はそれを掃おうとして、彼女の足首に触れた。そのまま引っ込めずにおいた。

私は彼女の動きも見ていなかった。どんな体勢からそうなったかもわからない。アブはどこかへ飛んでいった模様だ。

「わざとしてるの?」

「もちろん」

「少なくとも勇気はあるのね」
木霊のように、よそよそしい声だった。そういうよそよそしさに、私は木の葉のようにふるえた。

彼女は少しずつ、ゆっくりと身をかがめて、私の顔と並ぶぐらい低く顔を寄せた。

「あたしがとるべき道は、三つあるわ」彼女は言った。「当ててみて」

「お安い御用さ。黙って立ち上がるか、そのまま僕を蹴り上げるか。それともアブから刺されるか、だろう」

「気がつかなかった」不意に張りつめた声で、彼女は言った。「じゃあ、四つあるんだわ」

「キスしてくれ」私は言った。

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