鎌倉の夏

中山夫妻のビラにいつ戻ったのか、覚えていない。あとで、ある理由から、その時間を推定する必要に迫られたのだが、とにかくそのときはわからなかった。鎌倉の夏の午後は、鎌倉の人同様、永遠に続くのだ。

例の九官鳥がわめいているのは、すぐにわかった。やつが口癖のように連呼する「キュ〜ちゃん」という声が、窓の外から聞こえたからだ。
際限がないとされるお茶の時間ですら、ひょっとすると、終わってしまったかもしれない。

玄関から足音を忍ばせ、リビングに入ってみた。私が心に持ち帰ったのは勝利でも敗北でもなかった。いずれにせよそんなものは、そこでは、ミセス中山の前では、無意味だった。

もちろん彼女は、私の帰りを待っていたかのように、窓際のカーテンに背を向けて立っていた。彼女と同じく、カーテンは静止していた。一瞬空気は硬直して、それをゆるめかすほどの力もなかった。停滞した、沈黙の時間を待っているように彼女は立っていた。その腕の表面にも、ほの暗い首筋にも、光がちらとも差していないような気が、なぜかした。

彼女はすぐには口をひらかなかった。何も言わないミセス中山は、大音声を発しているかのようだった。と、驚いたことに、大理石のようになめらかな声が言ったのだ。「あなたがわたしを愛しはじめてから、九年になるわね、三上くん?」

素敵な文句ではないか。
「ああ」と、私は答えた。いまとなっては何を言っても、どう答えようとも手遅れだった。

「わたし、気がついていたのよ。わたしに気づかせようとしたでしょう?三上くん」

「かもしれないね、ああ」ひび割れたかすれ声は、私の声のようだった。

「それを意識すると、とても嬉しかったわ」

私は彼女に近よるでもなく、絨毯を爪で蹴るでもなく、ただじっと立っていた。

と、突然、あの静かな青みがかった遅い午後の光の中で、彼女の細い身体が、頭から爪先まで小刻みにふるえだした。

またしても沈黙が広がった。あえてそれを破ろうとは、私もしなかった。とうとう彼女は、ほつれたベルのひもに手をのばした。家の奥で響いたベルの音は、子供の泣き声にさえも似ていた。

「お茶なら、いつ飲んでもおかしくないでしょう」彼女は言った。

リビングから出るには出たが、ドアを通り抜けたような気がしなかった。
廊下からクロゼットの横を通り、こんどは一度もつまずかずに浴室の前まできた。

私は別の男に生まれ変わっていたのだった。おのれの分をわきまえて如何なる問題も起こさない代わりに、一切の心労からも開放された。
如才のない、静かな小男に、すべては解決ずみだった。終わったのだ。ぎゅっとつかんで強く揺すぶると目を丸くする、身長170センチあまりの小男、それが私だった。そんな男は箱に戻して、さあ、あたしの家へ行きましょうよ、という声が聞えるような気がした。

が、段差のない洗面台のところで私はつまずき、それが合図ででもあったかのように、横ちょのドアが微かに、落葉のごとく微かに開いた。それは、ひらき切らずに停まった。中山氏の寝室のドアだった。

彼はそこにいた。中のベッドはとても大きく、シモンズのロゴが光っていた。私の目に入ったのはそれだけ、ベッドだけだった。彼はベッドにくらいつくようにうつ伏せになって、長々とのびていた。泥酔しているのだ。正体を失っているのだろう。それにしても、少し早すぎる時間だが。

午後とも夕方ともつかぬ幽かな光の中に立って、私は彼を見つめていた。あの色黒のハンサムな巨漢、勝ち誇った野蛮人を。まだ明るいうちから酔いつぶれている、下司な男を。

勝手にするがいい。そっと手をのばしてドアを閉めると、忍び足で洗面台まで行き、冷たい水で顔を洗った。鎌倉の早朝の大気にも似ていて、その水のなんとひんやりとしていたことか。

それからまた、リビングに戻った。私のいない間に、お茶の用意ができていた。低いテーブルに置かれた、艶光りのする大きなポットのを前に、ミセス中山が座っていた。袖をよけるように注ぐので、裸の白い腕が袖口から突き出していた。

「疲れたでしょう」彼女は言った。「きっとおなかも空いてるでしょうね」

およそ生気のない、無感動なその言葉を聞くと、あの独裁者社長のいる早稲田のちんけな会社を思い出した。
女の武器をつかってパートタイマーから部長にまで昇りつめ、多額のローンを組んでマンションまで買った団地妻がいて、社長に捨てられたと同時に解雇通告までもらったその女は、二度と相まみえることのない顔に向かって、やはりどうでもいいようなことを、実にさりげなく言っていたものだ。不安感もこだわりも一切ないようでいて、心の中には死を抱えていた女。

いまの彼女もああだった。私はお茶を飲み、ケーキを食べた。

「彼が寝室にいるね」私は言った。「酔いつぶれている。きみもとっくに承知だろうが」

「そうなのよ」ミセス中山は、わずかに、それとわからない程度に袖をゆすった。

「ちゃんと寝かせてこようか?それとも、あのまま腐るに任せたほうがいいかな?」

彼女の顔が奇妙に揺れた。一瞬、私に見せる気のなかった表情がちらっとのぞいた。

「三上くん!」またしてもとりすました声で「以前は、主人のことでそんな口をきいたことはなかったわね、あなた」

「彼と口をきいたこともめったになかったからね。おかしな話だな。彼がぼくをここに招いた。ぼくはすんなりやってきた。おかしな連中だよ、われわれは――人間ってやつは、みなそうだが。でも楽しかった。そろそろ失敬させてもらう」

「三上くん?」

「もう、うんざりさ。帰らせてもらう。彼に礼を言っといてくれないか――素面にもどったら。ここに呼んでくれて有難かった、と」

「三上くん!」叱りつけるように呼びかけるのは、それが三度目だった。「少し変じゃなくて、あなた?」

「東京人特有の声門音ってやつが、ぶり返してきたのさ。長い冬眠からさめてね」

「そんなに主人を憎んでいたの?」

「旧友のよしみで言わせてもらうが、ぼくらのこの会話には感嘆符が多すぎるようだ。ぼくの無作法は勘弁してくれたまえ。もちろん、彼はちゃんと寝かしつけてやるさ――それから、鎌倉の空気を吸うことにしよう」

だが、ミセス中山は、もうまともには聞いていなかった。テーブルに身をのりだした彼女の目は、水槽の中の熱帯魚のようにぐるぐる泳いでいた。だれかに口をはさまれないうちにこれだけは言ってしまおう、と気負い立っているような口調でしゃべりはじめた。

「美術館のあったところ――ヒルサイド村岡に、ある女が住んでいるの。村岡恵子という女。恐ろしい女よ、男をとって食うような。主人はその女と付き合っていたの。今朝、二人はいさかいを起こしたらしいわ。あなたがいない留守に、あの人、ブランデーを上着にこぼしながら、そのいきさつをわたしにわめきちらしたの。あの女ったら、主人を蹴りつけたうえに、顔に煙草の火を押しつけたんですって」

もちろん私も、もはや聴いてはいなかった。頭はとうに透き通っていた。魔女にパチンと指を鳴らされたように、私は石と化していたのだ。過去、現在、未来が瞬時に蒸留されて一片の時と化し、それを錠剤のように飲みこんだ心地がした。それが私を石も同然にした。石のように硬直した笑いすら顔に貼りつくのを覚えた。

私はまたしても、彼の後塵を拝したのである。

ミセス中山は口をつぐんだようだった。口をつぐんで、ティーポット越しにこちらをながめていた。その顔が、目に入った。私には見えた。人は見ることができるのだ、こういう場合でも。
彼女の髪があれほどかすんでいたことはなく、愁いがあれほど露わだったこともない。彼女はいつものように身を動かした。腕と手と手首と頬が、ゆっくりと、それは優美な曲線を描き、近寄り難い魅惑を漂わせていた。が、いま思い起こしてみると、それは霧の触手のようにかよわい、儚い美しさだったのかもしれない。

私はカップを手わたしたらしく、彼女がお茶を注ぎ直していた。

「彼は煙草の火を押しつけられたんですって、顔によ。想像できて?あの中山がよ!それからあの女は主人をさんざん蹴りつけたんですって」

「麦わらみたいなサンダルでね」私は言った。「汚い雑きん同然に扱われたわけだ」

ミセス中山はハッと息を呑んだ。

「ああ、そういう女だよ、彼女は」無慈悲に、私は言ってのけた。「それに、彼女は自分の館を愛していてね、あの使い古した美術館を。それを承知で旦那が館の内部に加えた狼藉ぶりを見せてやりたいよ。特に大階段で本領を発揮していてね――どこぞの旦那のいい手本のようだ」

あれは、彼女のかすれた吐息だったのだろうか、それとも、邪悪な王の目を逃れた宮廷の道化のように、だれかが垂れ幕の陰で笑った声だったのだろうか?

「ぼくもその女を知っているんだ」私は言った。「親密にね」

その意味が彼女の頭にしみこむまでには、やや長すぎる時間がかかったようだ。ちょうど、デパートで買ってきた中華惣菜に虫が入っていて、その苦情の電話をデパートに入れたら、テナントで入っている店の責任なので、そちらの方に電話してくださいと言われ、やっと繋がったかと思ったら本店の方に回され、苦情係は明日の9時からですのでと冷たく罵られ、翌日になってやっとわかってもらえた――それだけの時間がかかったかのようだった。

大きく見ひらかれたミセス中山の瞳は、灰色の草にも似て、そよそよとも揺れなかった。そこには色彩もなく、光もなかった。

「彼は、午前中は独占できると思ったんだろう、きっと」私は言った。「ぼくは、午後に会う約束をしていた。ところが――」私は口をつぐんだ。たとえだれの前だろうと、話して面白いことではなかった。

私は立ちあがった。「すまない。言ってもはじまらないが、すまない。人を見る目があるようでいて、ぼくは簡単にのせられてしまう男でね。すまない。単なる口先だけにすぎないにしても、すまない」

すると、彼女も立ちあがった。そして、ひどくゆっくりとテーブルをまわってきた。互いの体が触れそうなほど近づいたものの、まだ触れてはいなかった。

それから、彼女はごく軽く、まるで蝶が止まったかのようにこちらの袖に触れた。私はじっとしていた。

それはふわっと離れて中空をさまよい、もう一度私の袖に止まった。蝶の羽ばたきにも似たひそやかな声で、ミセス中山は言った。「そんなこと、話し合う必要はなくてよ。話さなくてもわかり合えるはずですもの。どんなことでもわかり合えるはずだわ、わたしとあなたは。言葉なんか、交わさなくても」

「こいつはどんな男にも起こることなんだ。起こったときにはやりきれないが」

彼女の目には、他にもうごめいているものがあった。その目はもはや虚ろではない。といって、なごんでもいない。瞳のずっと奥の、ほの暗い廊下の端で、小さな扉がひらいている。これまで長いあいだ、いつからか思いだせないほど長いあいだ閉ざされていた扉が。
足音が石のように廊下を近よってくる。急ぐでもなく、希望もなく近よってくる。糸のように細い煙が中空に止まり、やがて弧を描きつつ虚無に向かって立ちのぼってゆく。

それらすべてが彼女の目の奥で起きているのが見えるような気がしたし、わかるような気がした。もちろん、ナンセンスだ。

「あなたはわたしのもの」ミセス中山はささやいた。「もう、わたしだけのもの」

私の頭をつかんで、引きよせた。そしてぎごちなく私の口をまさぐる唇は、北極のように冷たく、心もとなかった。

「帰る前に」彼女はひめやかにささやいた。「寝室にいって、彼に異常がないかどうか見てきてくださらない?」

「いいとも」答えた私の声は、胸板を撃ち抜かれた男のそれだった。

再びリビングを出ると、廊下の横のウォーキングクロゼットの扉をあけ、服を着替えた。持ってきた唯一のスーツを着て、残りをすべてスーツケースに突っこみ、ふたをしめてそっと鍵をかけた。悪い悪いいたずらをした少年のように、終始物音をたてず、聞き耳を立てながら動いた。

と、私がそうして手を貸していた静寂の中に、廊下をそっと通りすぎる足音が聞えた。それはある部屋に入り、また目の前を通りすぎていった。とてもゆっくりと、さながら私の想念のように遅々として腹這うがごとくに。

物音が甦った。リビングから聞える九官鳥の雄叫び。あけた窓から聞えていると思われるかもめの鳴き声。そして、すぐそばを車が走り抜けていく音。部屋のクロゼットのドアを、私はそうっとしめた。

廊下に出たとき、寝室のドアがまたも大きくあいているのに気づいた。まるで、わざと大きくあけ放したようにあいていた。

スーツケースを下に置き、壁にもたれかかって中をのぞきこんだ。彼の姿勢は、あれからほとんど変わっていなかった。完全にのびている。あの大きなベッドに駆けよりざま倒れこみ、両手いっぱいにベッドのシーツをつかんで、そのままアルコールの大海に沈んだかのようだった。

次の瞬間、灰色の静寂の中で、私は音の不在に気がついた。正体のない酔っ払いなら当然放って然るべき鼾まじりの寝息、浅い鼾、曖昧な喚き、それらが一切聞こえない。私は耳をすました――それはもう慎重に。が、聞こえなかった――彼の吐息が。
あの大きなベッドに、彼はいかなる物音もたてず、うつ伏せに横たわっていた。

けれども、私が豹のように前かがみになって、足音を殺し、息を殺してその部屋に入っていったのは、それだけのせいではない。とうに目に入っていたのに気づかなかった、あることに、いま気づいたからだ。彼の左手の薬指。そいつが変だった。ぐったりとシーツにのびている左手の薬指が、隣の中指より1センチ以上長いのだ。1センチほど短いのが普通なのに。

それは1センチ以上長かった。長い分は、つららのような凝血だった。

それは音もなく、何物にも遮られずに喉から流れてきて、そこに、奇妙なつららのように凝固していた。

もちろん、彼は数時間前から死んでいたのだ。

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