鎌倉の夏

村岡美術館の跡地とされている高台に向かってのぼって行くと、忽然と館が現れた。坂をあがり切ったところの中庭が、海を一望できる見晴台だが、こういう場合の常で、周囲の樹木が邪魔をして、視界が開けたというかんじにはならない。

その館の荒廃ぶりたるや、鎌倉でも珍しいくらいだった。壁には蔦がジャングルのようにからみつき、雑草の生い茂る広い芝生は荒れるに任されている。左端に一段高く設けられている庭園ですら、恥じずべき廃墟と化していた。

横手の芝生などは、膝まで達する雑草に占拠されている。
母屋自体は古きよき黒ずんだ美しいレンガ造りで、様式は英国王朝というべく、鉛色の枠付けをされた重厚な窓を備えていた。
その背後では、丸々と太った蜘蛛が僧正のように眠っており、窓ガラスには斑模様を描いて彼らの巣が張りめぐらされていた。彼らがいま眠たげに外を眺めている窓からは、かつての大正時代、モーニングと呼ばれるペンギンが着るような洋服を身に纏った鋭い目つきの男たちが、舶来の絵画の意味も理解できず、ただきどった横文字の言葉をならべたぐっていたに相違ない。

苔に蔽われて荒れ放題の、いまにも倒れそうな納屋が、前方に現れた。
と見る間に、小汚い扉の奥から、どこぞの豚舎にでもいそうな長靴を履いた若い男が、紐で結わいた古雑誌の束を片手に現れた。もう一方の手には鎌を持っている。私に軽く会釈した。

彼女はレンガ敷きの庭に足を踏み入れて、物も言わずにその場を離れた。

「ただ、手入れを怠っているというんじゃないのよ」その男の耳に入らないところまできて、彼女は言った。「殺人と同じだわ。あたしがこの館を愛しているのを承知で、彼はそうして放置しておくの」

「今のは、君のご主人?」上唇を反り返らせるようにしながら、私はそっと口を動かした。胸に憎悪がたぎっていた。

「玄関から入らない?素晴らしい絵を楽しめるから。あそこに示された彼のお手並みは見事なものよ。特に念入りに壊してあるの」

玄関前には、ガラス張りの温室のようなゲストルームがあった。ガラスは既にガラスの役目をなしてなくて、白っぽいセルロイドのように変色していた。
中央に丸いテーブルが置かれてあり、座ると腰から床に崩れ落ちてしまいそうな朽ちた籐の椅子が三脚、無造作に置かれてあった。
片隅に、妊婦のようにお腹を大きくした女性の銅像があった。胴らしきそれはブルーを通り越して焦げ茶色に変色していて、いっそう無残だった。物言わぬ、意地の悪い女理事長にも似ていて、ここの住民以上の何かだった――後ろで手を組み、海に背を向け、テーブルを睨み付けるようにして立っている。

たぶん鳴っているだろうと思われるほど幽かなチャイムの音に応えて現れたのは、納屋で見た男に劣らず小汚い老婆だった。村岡恵子のような鎌倉の上流夫人は、家に入るのではなく、必ずだれかに迎えられなければならないらしい。現れた老婆は何やら曖昧な訛りのある口調で、呪文をかけるようにぶつぶつと出迎えの言葉をつぶやいた。
私たちはドアの中に踏み込んだ。彼女は右手を掲げた。

「ほら、あれよ」その声の険しさに比べれば、どんな声も色褪せただろう。「犯罪になぞらえると、あのやり口は、六人もの連続殺人ってことになるのかしら。しかも、子供だけをね。1939年のもので『遊ぶ子供たち』って作品よ。ローランサンというフランスの画家」

「切りつけたのは最近のようだね」

目の前には階段が、いや、その残骸があった。それはもと来客のために、高貴な貴婦人が絵画を見ながらのぼっていくために造られたのだろう。

幅はあくまでも広く、堂々たる貫禄を具えた階段だった。ゆったりとした威圧的な曲線は、時が刻んだのでもあろうが、手すり一つとっても一財産の勝ちがあったに相違ないが、それは単なる憶測にすぎない。目の前の手すりは無残に斧のようなもので砕かれていて、黒っぽいギザギザの破片と化していたからだ。

かなりの時間じっと目を凝らしてから、私は顔をそむけた。この先、その響きを耳にしただけで吐き気を催すに相違ない名前が、いま胸に刻まれていた。

「ちょっと待った」私は言った。「あなたはいまも彼の――」

「これはみんな、あの人の復讐の一部なの」

醜悪な老婆は、ぶつぶつ言いながら、どこかに消えてしまった。

「彼に、どんな仕打ちをしたというんだい、あなたは?」

しばらくしてから、彼女は捨てばちな口調で答えた。
「これからもずっと、生きている限り、何度も何度も繰り返してやりたいわ、それがあたしの唯一の望み。あの人がいずれは暗い地下室の穴蔵にさまよいこんでも、その噂が耳に入るようにしてやりたいの」

「本気で言ってるんじゃないだろうな、なにからなにまで」

「そう思う?さあ、こっちよ。うちの狂人は、いつも姿を見せないことで有名なんだから」

私たちが通ったのは、絵画を展示するための回廊だったのかもしれない。壁の鈍子には、黒っぽい、アンズ色の額がいくつもかかっていた。

「馬鹿め!」虚ろな回廊と壁に向かって、私は言った。「馬鹿野郎!」

「本気で怒っているわけじゃないでしょう、あなた?」

「ああ。いまの言葉ほどにはね」

回廊をすぎると、給湯室だったと思われる部屋があり、細いひめやかな扉が、心やすい優美な曲線を描いている細いひめやかな階段に通じていた。私たちはのぼっていった。そしてとうとう、装飾らしい装飾の施されている部屋にたどり着いた。

白のソフトな生地の帽子を脱いだ彼女は、髪を無造作にふくらませてから、帽子とポーチを椅子に放り投げた。そこには大きなベッドがあった。天から白いレースの布がぶら下がっていて、べッドもシーツも、横に置かれたスタンドまでもが、眩しい白だった。
ウイングミラーのついた化粧台の方から、ブランデーを入れたと思われるブランデーグラスを二つ手にして、彼女が戻ってきた。

ふくよかで艶のある手。水仕事などしたことのない人の手だ。ミセス中山のそれのような、繊細な手ではない。ぎゅっとしめつけると跳ね返ってきそうな手、傷つけることのできる手。その手にかかれば、サーファーはどんな高い波にも挑むだろうし、どんな嵐の日でも海に出よう。持っているグラスを砕きかねない手。その手首は新しい象牙のように白かった。

私は古めかしい大きな扉の内側に立っていた。その部屋に踏み込んで以来、ぴくりとも体を動かしていなかった。彼女が手渡してくれた酒は、微かにふるえてグラスの中で踊った。

彼女の目が見上げた――はるか遠くを見ているような、つかみどころのない目。あの超然とした目。何も語らず、ひっそりと内に閉じ込もっている目。それは、もはや秘密ではない家の、最後の残ったあかずの窓だった。

どこかで、いかにも鎌倉らしい金木犀の香りが、仄かに漂っていたような気がする。

私はぎごちなく手を後ろにのばして、食器棚の扉ほどもありそうなほどの錠の、スパナのような大きな鍵を回した。
鍵はきいっと軋んだが、二人とも笑わなかった。笑わずに酒を口に運んだ。私がグラスを置くまもないうちに、彼女はひしと抱きついてきた――息が止まるほどきつく。

彼女の肌は甘美で、ちょうど白熱の太陽に焼かれた丘に生える野の花のような野趣があった。二人の唇が重なった。融けそうになった。と、彼女の口が開き、舌の先が激しく私の歯をまさぐった。

「おねがい」私の口をむさぼりながら、かすれた声で言った。「おねがい、ああ、おねがい――」

幕の引き方は、二つとあり得なかった。

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