鎌倉の夏
5
私は寝室の扉を、とても丁寧に、注意深くしめた――霊安室に遺族を迎え入れる刑事のように。
それから、そっと廊下を伝ってリビングの扉もしめた。
低い椅子にもたれかかったミセス中山は、艶光りした髪をクッションに預けて、ぎごちない手つきでティーカップを口にしていた。その目に揺れていた感情――それは私にはわからない。いずれにしろ、人の目の表情を読みとることには、もう飽き飽きしていたのだ。
「凶器はどこだ?彼に握らしておいたほうがよかったのに」
きつい口調になったが、大声で、よく通る声で言ったわけではない。ともかく、いまの私は、鎌倉のむんむんした夏の空気とは無縁だった。
彼女は微かに笑って、不安定な脚のついた、ひょろっとした家具のほうを指さした。引出しのついていることもあるが、概して、こまごまとしたカップ類、中山氏が黒鯛を釣ったときの小さな額縁写真、七人の小人のようなフィギアが並んでいる、いろんな調度品だ。
サイドボード、と呼ぶのかどうかはともかく、それには少し上反ってきちきちの引出しがついていた。そいつを引っぱると、上にのせてあるカップ類がカタカタと鳴った。
ナイフはそこに、紙ナプキンに包まれて入っていた。リンゴを剥くときに使う、小さな果物ナイフだった。
鼻を寄せて、匂いを嗅いでみた。血生臭くはなかった。
「つまり、きみは知っていたわけだ」私は言った。「ぼくが気どって阿呆な真似をしていたあいだ、きみはずっと知っていたわけだ。お茶を飲んでいたときも知っていた。彼があのベッドに横たわっていたことを。そのとき彼の喉から吹きだした血が、シャツの下を通り、脇の下を流れ、腕から指の先へと、ゆっくりと伝い落ちていたことを――そう、死体からも血が流れるが、そのスピードはとてものろいんだ。きみはずっとそれを知っていたんだな」
「あの、けだもの」紅い唇から洩れた声は、平静そのものだった。「人間の屑。あの人のために、わたしがどんな侮辱を受けていたと思うの?」
「そうか」私は答えた。「それもわかる。ぼくも、彼のような男に甘い顔はできないほうだ。しかし、このまま手をこまねいているわけにもいかない。ナイフにはさわるべきじゃなかったな。最初の位置に戻しておくのがいちばんよかった。さわってしまってから言っても仕方ないが。指紋さ、指紋のことは知っているだろう?」
相手は大人である。別に皮肉っていたわけではない。話しながら、もし手遅れでないなら彼女を救う道がないかと考えていたのだ。こちらが気づかないうちに、ミセス中山の手からティーカップが消えていた。そういうことができるのだ、彼女には。いまは身じろぎもせずに椅子の腕に両手を置いて、座っていた。左右に揺れているその手は、いかにもほっそりとしていて、暁のように儚げだった。
「ここにはきみたちしかいなかった」私は言った。「きっと、九官鳥は寝ていたんだな。彼が刺されたのを見たものは誰もいない」
すると、彼女は笑い声をあげた。低い、忘我の笑い、大きなリクライニングベッドで枕にのけぞる女の笑いだった。
笑うと喉の線が少し鋭くなり、それっきり和らぐことはなかった。
「どうして?」彼女は訊いた。「あなたはそんなことを気にするの?」
「もっと早く打ち明けてくれればよかったのに。何を笑っているんだ? それがハマっ子の気質なのかい?・・・・・・それにきみは、わざわざ寝室までいって、あのドアをあけていった――そう、きみがあけたんだ。ぼくが必ず気づくように。なぜなんだ?」
「あなたを愛しているから。人並みにね。わたしは冷たい女よ、三上くん。わたしが冷たい女だってこと、知っていたでしょ?」
「そうではないかと思っていた。でも、それはたまたま、ぼくの関心事ではなかったんでね。それより、ぼくの訊いたことに答えてくれ」
「あなたの関心事は、別の館にあったわけね」
「そいつはもう六百年以上も前の話だ。鎌倉幕府が崩壊する前の話だよ。もう屍衣に包まれて、ボロボロにくずれてしまった。しかし、これは、いま現在の話だ」私は強ばった指先を寝室の方に突きつけた。
「でも、美しい結末じゃない?」吐息まじりに言った。「美しい悲劇だわ、これは。安っぽいメロドラマに仕立てあげるのはやめましょう」しなやかな、ほっそりとしたうなじを、愛撫するように彼女はさわった。
「わたし、懲役刑よ、三上くん。そうなの――殺人罪なの」
私はただ呆然と、物も言わずに彼女を見つめた。
「そう、わたしは刑務所に入れられるの」ひややかな口調で彼女はつづける。「然るべき手続きを踏み、略式の裁判を経て。そのとき裁判官は、非の打ちどころのない折り目のついたズボンをはいて、判決を下すはずよ、意図的に、注意深く、冷然と――ちょうど、そう、わたしが彼を刺し殺したときのように」
私は、死なずにすむだけの息しか吸っていなかった。「計画的にやったのか?」
訊かずもがなの問だった。答はすでにわかっていたからだ。
「もう何ヶ月前からそのつもりでいたわ。きょうやれば、他の日よりも小気味いいと思ったの。彼は、あの美術館の女に自尊心を傷つけられたところだったし、あの女に見下されたわけでしよう。ともかく下卑た男だったんですもの。だから、ああしてやったんだわ」
「しかし、ただ下卑ているというだけのことだったら、きみは我慢できたはずだ」
ミセス中山はうなずいた。と、そのとき、この地上の何物にも似ていない、ガタンという奇妙な音が私の耳に聞えた。頭巾をかぶせられた何かが、ブランと揺れた。冷たい光の中で、頭巾に隠された長い華奢な首をくくられて、微かに揺れた。
「いや」息もつかずに私は言った。「そうはさせない。なあに、造作はないさ。ぼくの言う通りにしてくれるかい?」
彼女は待っていたかのように立ち上がると、こちらに近よった。私はその体を抱きすくめて、キスし、髪をまさぐった。
「わたしの王子さま」ミセス中山はささやいた。「白馬に乗った王子さま。わたしの三上くん」
「どうやって刺した?」引出しの中のナイフをさして、私は訊いた。「警察はルミノール反応をするんだ。相手が刺したとき、少なからじも返り血を浴びる。その血痕が衣服についてたりしていないかい? その証拠を消さなければ」
彼女は私の髪を撫でた。「大丈夫よ。わたし、ゴミ袋を頭から被って、衣服に付かないようにしてやったの。そのあと、ナイフを彼の手に握らせたの、なだめすかしながらね。彼は泥酔していたから」
白い手が、私の髪を撫でつづけていた。
「素敵な、わたしの三上くん」
もはや私が彼女を抱いているのではなく、彼女が私を抱いているのだった。私はゆっくりと、ゆっくり頭を絞って、考えをまとめた。
「それだけでは、ケリがつかないかもしれない。警察では、君の手の反応を調べるだろう。爪の隙間の奥にはさまったわずかな血痕もね。となると、為すべきことは二つある。聞いているかい?」
「素敵な、わたしの三上くん!」彼女の目は輝いた。
「爪を切り、石鹸とお湯で、手を丹念に洗うんだ。多少痛くても、皮がむけない程度にゴジゴシ洗うといい。それで、テストはごまかせるだろう。いいかい、こいつは本気で言ってるんだ。必ず実行してくれ。もう一つ――あのナイフはぼくが持って出る。それで警察は、決め手を失うはずだ。四十八時間もたてば、ルミノール反応の効果も薄れるだろう。わかったかい?」
彼女はさっきと同じ言葉を、同じ風にささやいた。輝く瞳も、同じ光を放っていた。私の頭を撫でる手も、同じくそっと愛おしげに動いている。
この女を、私は憎んではいなかった。愛してもいなかった。ただ、為すべきことを為そうとしているだけだった。引出しから、果物ナイフをとりあげ、それを包んでいた紙ナプキンもとりあげた。かすかに血が滲んでいたからだ。引出しの底もよく見たが、汚れてはいない。ナイフと紙をポケットにおさめて、言った。
「警察に対しては、最近、夫とは寝室を別にしていた、と言うんだ。彼は泥酔していて――寝込んでいた。いつものことだから、きみは気にも留めず、心配もしなかった。もちろん、きみは争う音を聞いた。その時刻の証言に関しては、実際の時刻に接近しすぎてもいけず、離れすぎてもいない時間を言うといい。おもてで争い事でもあったのかと思ったぐらいにするといい」
彼女はこちらの手にすがりついた。その手を、私はそっと撫でてやらなければならなかった。彼女の目が、そうしてくれとせがんでいた。
「きみはもう、彼にはうんざりしていた。彼が泥酔するのは毎度のことで、きょうはとりわけひどかった。だから、朝まで寝かせておこうと思った、と、そう言うといい。すると九官鳥が起きだして――」
「あら、キュウちゃんはいけないわ」歌うような声で、彼女はさえぎった。「九官鳥にそんな役を押し付けちゃ可愛そう」
とても効果的な一石になったかもしれないのだが、その一言でだめになった。私は部屋を出ることにした。
「肝心なのは、手を洗うことだ――赤むくれにならない程度にごしごしとね――そしてぼくは、ナイフを持っている。いいね?」
彼女はまたしても、動物的な、細い仕草でしがみついてきた。
「そのあとは――」夢みるような私の吐息が、彼女のひんやりとした唇に触れた。
自分の体をむりにもぎ放すと、私はその家を後にした。
6
それから三週間、私は警察の追求をかわした。それは彼らの手落ちだったのかもしれないが、日本のような狭い国土を考慮に入れれば、素人にしては、私もかなり上手に立ちまわったと言えるだろう。
あの日の深夜、無灯火でいける最も淋しい埠頭に、私は自分の車を放置した。風の拭きすさぶあの港なら、いずこの地から何十キロも離れているように見えた。むろん、事実はちがっていたのだが。
潮風を頬に受け、行き交う車を横目で見ながら、私はスーツケースを引きずって歩いた。瞬くネオンの中を、排気ガスを頭からかぶり、暗黙の街を通り抜けて。
やっとのことでJRの駅に着き、電車で関内に着いた。いくべき場所は、わきまえていた。黄金町の東、大通り公園の木賃宿。そこでは本当の素性や、こうあれかしと願う素性で暮らしている者はだれもおらず、家主と名のるあばずれ女をはじめ、それを意に介する者もまた一人もいないのだった。
朝食は、戸口に置かれる。海苔の巻いたおにぎりが二個と、冷えた具の多めの味噌汁。昼食は菓子パン一つで、望むならミルクが出る。夕食は、それを当然とする階級出身の者に限って外に出て、自前で調達する。帰りが深夜になると、伊勢佐木町で見かけた白い顔の亡霊のような娼婦たちのイメージがまとわりついて離れない。そんな記憶ですら、巡査が照らしつけてくる懐中電灯の恐怖から守ってくれるように、階段の鉄の手すりに沿って、部屋までついてくる。"ねぇ、ちょっと、そこの人"という、うとましい呼び声とともに、彼女たちの顔は、ぐっと内側からかみしめたその唇や、すでに死滅した世界しか見ていない大きな虚ろな目の記憶ともども、一晩中頭にからみついて眠らせてくれない。
同じ木賃宿でマービン・ゲイを、ややしつこく、うるさく歌う男がいた。いずれ浮ぶ、自分自身の魂を癒すために彼は歌っていたのだろう。
かと思うと、覚りすました弱々しい顔の陰に不潔な心を隠した孤独な老婆がいた。おのれをロックミュージシャンだと思いこんでいる、派手な服装の野暮な若造も二人いた。
それらすべての連中に、すぐにいや気がさした私は、リュックを一つ買いこんで、徒歩で新横浜に移動した。むろん、新聞には私の記事が出ていたが、扱いは地味だった。派手に書きたてられているわけでもなく、私の免許証の写真のぼやけたコピーが転載されているわけでもなかった。年齢、身長、体重、出身地、現在行方不明であり、なんらかの情報を握っていると思われる、云々。中山氏の経歴ものっていたが、三行程度ですまされていた。連中にとって、彼は、たまたま死亡した裕福な男にすぎず、いかほどの重要性も有してはいないのだ。私を東京出身と報じたことが、こちらには幸いした。ハマっ子のふりをして、地元ネタを話していれば、ここでは充分通用した。もっと郊外に行けば、造作なく神奈川県民になりすませるはずだった。
が、川崎のはずれの登戸というところで、私は警察に追いつかれた。そのときのこちらは、さる小さな民宿の食堂でお茶を飲んでいるところだった。東京から休養をとりにきた作家という触れ込みで、私はここに投宿していたのである。そう、マナーをわきまえた、決しておしゃべりではない、猫好きの作家として。
そのホテルには、黒と白と、二匹の太った猫がいた。どちらも、私に劣らず"柿の種"が好きで、連中と一緒にお茶を飲むのが私の慣わしになっていた。監獄の庭のように灰色の、陰うつな午後だった。逮捕にはもってこいの日。多摩川べりの土手にも、霧が低くたれこめていたことだろう。
相手は二人だった。地元の人間でありながら秋田などという名前をもつ刑事に、鎌倉署からきた警部。難物は後者だった。本庁捜査課からきたという秋田は隅に座って、自分のスーツの汚れを気にしていた。
警部は五十歳代の、恰幅のよい男だった。柔道の国際大会に出場するような輩の頭に、大きな脳みそをのっければ、その男に近くなるだろう。彼は人当たりのよい、温厚な人間だった。長い食卓の端に帽子を置くと、黒い猫を抱きあげて彼は言った。
「やれやれ、やっと追いつきました。わたしは鎌倉署刑事課、警部の鮎川です。あなたのおかげで、県警の予算もだいぶすり減りましたよ」
「まあ、お茶でもいかがです」私はお湯を汲むためにキッチンまで行き、ポットを持って戻ってきた。「お茶をどうぞ――殺人犯と一緒に」
彼は笑ったが、秋田という刑事は笑わなかった。秋田刑事には、みなとみらいのビルの隙間を吹き抜ける乾いた風のような表情しか浮んでいなかった。
「いいですとも――しかし、殺人犯云々の話はなしにしていただきたい。どうぞご休心のほどを――こんどの事件で窮地に陥っている人間はだれもいないのですから」
私はすっかり血の気を失っていただろう。彼はやおら立ちあがってティーパックの日本茶を手にとり、そんな大柄の人間らしからぬ機敏な動作でその包装をやぶき、カップに入れ、ポットのお湯を注いだ。
ハチがぶんぶん飛び回る巣の中から蜜を取り出す養蜂農家の男のように、周到にして俊敏な、無駄のない手が、私の体をまさぐった。
にやっと笑って、私は言った。「あとでお渡ししますよ。お茶を飲むときには身につけない主義なんだ」
秋田刑事は隅でお茶を飲み、鮎川警部は、黒猫を抱きながらテーブルで飲んだ。
その夜、私は彼と共に鎌倉に戻った。
たしかに、どういうこともなかった――まるでなかった。
一杯くったことを連中は承知しており、警察連中の常で、勝っているふりをして負けたのである。表面的にはこういう具合だった――あなたはなぜナイフを持ち出したんです?
なぜなら、彼女が勝手にいじったのを見て、置いておくと危険だと思ったからです。なるほどね。しかし、それでもあのまま動かさずに置いたほうが賢明でしたよ――(いかにも刑事らしい言い草ではないか)――あなたが持ちだしたから、事件が複雑になった。となると、かえって忌わしい事情があるのではないかという印象を与えると思いませんか?
ええ、その通りでしたね。と、私は恐縮して答えた。
それが表面的な経緯である。が、実のところ、私は彼らの冷たい灰色の壁のような目の奥に、もしや、という光がひらめくのを見たのだった。私の表情の何かが、彼らにそう思わせたのかもしれない。が、時すでに遅かった。中山氏は泥酔したあげく、愚かにもだれかにナイフを握らされ、喉にそれを突きたてられたのち、“グサッ”という音と同時に、自分で自分の喉を突き刺して、彼は――笑いもせずに――倒れた・・・・・・そういう可能性が、俊敏な刑事たちの脳裏にひらめきもしたらしい。が、時すでに遅かったのだ。
取調室を出たところで、私はミセス中山に、ずっと昔どこかで会ったグレーのスエットスーツの女に、会った。言葉は互いに交わさなかった。そしてそれっきり、彼女とは会っていない。囚人服のようなグレーの上下を着た彼女は、さぞかし魅力的だったことだろう。いまや彼女は、いついかなるときでもその衣服をまとうことができるのだ。
村岡恵子にも、一度、小町通りの駄菓子屋の前で会った。彼女は一人の男性と犬を連れて散歩しているところだった。犬と男を先にいかせて、彼女は立ちどまった。あれは尻尾を切りつめたゴールデンリトリバーだったと思うが、それにしては小柄だった。私たちは握手を交わした。彼女はすこぶる美しかった。
二人は道の真ん中に立っていたのだが、他の歩行者たちはいかにも鎌倉慣れした旅行者らしく、几帳面によけて通っていく。
彼女の目は黒い大理石に似て、平穏な、沈んだ輝きを放っていた。「ぼくのアリバイを証言してくれて、ありがとう」
「でも鎌倉署の鮎川さんの相手をするのも、素晴らしかったわよ。マルガリータを飲みすぎて、目の前がぐるぐるまわっているような感じ」
「きみがいなかったら、ぼくが犯人に仕立てあげられていたかもしれない」
「今夜はね」せかせかと、早口で彼女は言った。「あたし、時間がぜんぶふさがっているの。でも、明日なら――いまプリンスホテルに泊まっているんだけど、電話してくれる?」
「明日ね」私は言った。「ああ、必ず電話する」(私は明日、鎌倉を経つ予定だった)。「君は、中山ってやつを踏みにじったらしいね。なぜだったんだい?」
慎重そうな歩行者が往来している、小町通りのど真ん中で、私はそう訊いたのである。
「あたしがそんなことを? まあ、なんて端たない女でしょう。なぜなのか、ご存じないの?」小町通りの一本裏と同じような、落ち着き払った、品のある声。
「いや、想像はつくさ。やつみたいな男は、えてしてそういう間違いを犯す。自分に笑いかける女はみんな自分のものだと思いこむんだ」
紅葉の山々から運ばれてくる風のように、深く野趣のある彼女の肌の香りが仄かに漂ってきた。
「じゃあ、明日ね。四時頃ならあいているわ。電話抜きで、直接きてくれてもいいわよ」
「じゃあ、明日」私は嘘を言った。
彼女の姿が完全に人込みに呑まれるまで、私はじっと見守っていた。凝然と立ち尽くして、身じろぎ一つしなかった。周囲を、歩行者たちが、あの鎌倉の旅行者たちが、何かの記念碑か、大仏か、等身大の観音様でもよけるように、礼儀正しくよけて通っていく。
棒を呑んだように、私は立っていた。冷たい風に吹きあおられた落葉や紙屑が、もはや色褪せた石畳の上を転がり、細い歩道をわたり、高い竹垣ですら飛び越えて、民家の中に舞いこんでいく。
そこに立ち尽くしていた長い長い時間、私の目は何も追ってはいなかった。見るべきものは何もなかったからだ。
(了)
文頭でも述べましたが、これは【イギリスの夏/高見浩氏訳】を編集した作品です。
オリジナルな描写の部分もありますが、ほとんどが引用です。