鎌倉の夏

私は寝室の扉を、とても丁寧に、注意深くしめた――霊安室に遺族を迎え入れる刑事のように。
それから、そっと廊下を伝ってリビングの扉もしめた。

低い椅子にもたれかかったミセス中山は、艶光りした髪をクッションに預けて、ぎごちない手つきでティーカップを口にしていた。その目に揺れていた感情――それは私にはわからない。いずれにしろ、人の目の表情を読みとることには、もう飽き飽きしていたのだ。

「凶器はどこだ?彼に握らしておいたほうがよかったのに」
きつい口調になったが、大声で、よく通る声で言ったわけではない。ともかく、いまの私は、鎌倉のむんむんした夏の空気とは無縁だった。

彼女は微かに笑って、不安定な脚のついた、ひょろっとした家具のほうを指さした。引出しのついていることもあるが、概して、こまごまとしたカップ類、中山氏が黒鯛を釣ったときの小さな額縁写真、七人の小人のようなフィギアが並んでいる、いろんな調度品だ。

サイドボード、と呼ぶのかどうかはともかく、それには少し上反ってきちきちの引出しがついていた。そいつを引っぱると、上にのせてあるカップ類がカタカタと鳴った。

ナイフはそこに、紙ナプキンに包まれて入っていた。リンゴを剥くときに使う、小さな果物ナイフだった。
鼻を寄せて、匂いを嗅いでみた。血生臭くはなかった。

「つまり、きみは知っていたわけだ」私は言った。「ぼくが気どって阿呆な真似をしていたあいだ、きみはずっと知っていたわけだ。お茶を飲んでいたときも知っていた。彼があのベッドに横たわっていたことを。そのとき彼の喉から吹きだした血が、シャツの下を通り、脇の下を流れ、腕から指の先へと、ゆっくりと伝い落ちていたことを――そう、死体からも血が流れるが、そのスピードはとてものろいんだ。きみはずっとそれを知っていたんだな」

「あの、けだもの」紅い唇から洩れた声は、平静そのものだった。「人間の屑。あの人のために、わたしがどんな侮辱を受けていたと思うの?」

「そうか」私は答えた。「それもわかる。ぼくも、彼のような男に甘い顔はできないほうだ。しかし、このまま手をこまねいているわけにもいかない。ナイフにはさわるべきじゃなかったな。最初の位置に戻しておくのがいちばんよかった。さわってしまってから言っても仕方ないが。指紋さ、指紋のことは知っているだろう?」

相手は大人である。別に皮肉っていたわけではない。話しながら、もし手遅れでないなら彼女を救う道がないかと考えていたのだ。こちらが気づかないうちに、ミセス中山の手からティーカップが消えていた。そういうことができるのだ、彼女には。いまは身じろぎもせずに椅子の腕に両手を置いて、座っていた。左右に揺れているその手は、いかにもほっそりとしていて、暁のように儚げだった。

「ここにはきみたちしかいなかった」私は言った。「きっと、九官鳥は寝ていたんだな。彼が刺されたのを見たものは誰もいない」

すると、彼女は笑い声をあげた。低い、忘我の笑い、大きなリクライニングベッドで枕にのけぞる女の笑いだった。

笑うと喉の線が少し鋭くなり、それっきり和らぐことはなかった。

「どうして?」彼女は訊いた。「あなたはそんなことを気にするの?」

「もっと早く打ち明けてくれればよかったのに。何を笑っているんだ? それがハマっ子の気質なのかい?・・・・・・それにきみは、わざわざ寝室までいって、あのドアをあけていった――そう、きみがあけたんだ。ぼくが必ず気づくように。なぜなんだ?」

「あなたを愛しているから。人並みにね。わたしは冷たい女よ、三上くん。わたしが冷たい女だってこと、知っていたでしょ?」

「そうではないかと思っていた。でも、それはたまたま、ぼくの関心事ではなかったんでね。それより、ぼくの訊いたことに答えてくれ」

「あなたの関心事は、別の館にあったわけね」

「そいつはもう六百年以上も前の話だ。鎌倉幕府が崩壊する前の話だよ。もう屍衣に包まれて、ボロボロにくずれてしまった。しかし、これは、いま現在の話だ」私は強ばった指先を寝室の方に突きつけた。

「でも、美しい結末じゃない?」吐息まじりに言った。「美しい悲劇だわ、これは。安っぽいメロドラマに仕立てあげるのはやめましょう」しなやかな、ほっそりとしたうなじを、愛撫するように彼女はさわった。

「わたし、懲役刑よ、三上くん。そうなの――殺人罪なの」

私はただ呆然と、物も言わずに彼女を見つめた。

「そう、わたしは刑務所に入れられるの」ひややかな口調で彼女はつづける。「然るべき手続きを踏み、略式の裁判を経て。そのとき裁判官は、非の打ちどころのない折り目のついたズボンをはいて、判決を下すはずよ、意図的に、注意深く、冷然と――ちょうど、そう、わたしが彼を刺し殺したときのように」

私は、死なずにすむだけの息しか吸っていなかった。「計画的にやったのか?」

訊かずもがなの問だった。答はすでにわかっていたからだ。

「もう何ヶ月前からそのつもりでいたわ。きょうやれば、他の日よりも小気味いいと思ったの。彼は、あの美術館の女に自尊心を傷つけられたところだったし、あの女に見下されたわけでしよう。ともかく下卑た男だったんですもの。だから、ああしてやったんだわ」

「しかし、ただ下卑ているというだけのことだったら、きみは我慢できたはずだ」

ミセス中山はうなずいた。と、そのとき、この地上の何物にも似ていない、ガタンという奇妙な音が私の耳に聞えた。頭巾をかぶせられた何かが、ブランと揺れた。冷たい光の中で、頭巾に隠された長い華奢な首をくくられて、微かに揺れた。

「いや」息もつかずに私は言った。「そうはさせない。なあに、造作はないさ。ぼくの言う通りにしてくれるかい?」

彼女は待っていたかのように立ち上がると、こちらに近よった。私はその体を抱きすくめて、キスし、髪をまさぐった。

「わたしの王子さま」ミセス中山はささやいた。「白馬に乗った王子さま。わたしの三上くん」

「どうやって刺した?」引出しの中のナイフをさして、私は訊いた。「警察はルミノール反応をするんだ。相手が刺したとき、少なからじも返り血を浴びる。その血痕が衣服についてたりしていないかい? その証拠を消さなければ」

彼女は私の髪を撫でた。「大丈夫よ。わたし、ゴミ袋を頭から被って、衣服に付かないようにしてやったの。そのあと、ナイフを彼の手に握らせたの、なだめすかしながらね。彼は泥酔していたから」

白い手が、私の髪を撫でつづけていた。
「素敵な、わたしの三上くん」

もはや私が彼女を抱いているのではなく、彼女が私を抱いているのだった。私はゆっくりと、ゆっくり頭を絞って、考えをまとめた。

「それだけでは、ケリがつかないかもしれない。警察では、君の手の反応を調べるだろう。爪の隙間の奥にはさまったわずかな血痕もね。となると、為すべきことは二つある。聞いているかい?」

「素敵な、わたしの三上くん!」彼女の目は輝いた。

「爪を切り、石鹸とお湯で、手を丹念に洗うんだ。多少痛くても、皮がむけない程度にゴジゴシ洗うといい。それで、テストはごまかせるだろう。いいかい、こいつは本気で言ってるんだ。必ず実行してくれ。もう一つ――あのナイフはぼくが持って出る。それで警察は、決め手を失うはずだ。四十八時間もたてば、ルミノール反応の効果も薄れるだろう。わかったかい?」

彼女はさっきと同じ言葉を、同じ風にささやいた。輝く瞳も、同じ光を放っていた。私の頭を撫でる手も、同じくそっと愛おしげに動いている。

この女を、私は憎んではいなかった。愛してもいなかった。ただ、為すべきことを為そうとしているだけだった。引出しから、果物ナイフをとりあげ、それを包んでいた紙ナプキンもとりあげた。かすかに血が滲んでいたからだ。引出しの底もよく見たが、汚れてはいない。ナイフと紙をポケットにおさめて、言った。

「警察に対しては、最近、夫とは寝室を別にしていた、と言うんだ。彼は泥酔していて――寝込んでいた。いつものことだから、きみは気にも留めず、心配もしなかった。もちろん、きみは争う音を聞いた。その時刻の証言に関しては、実際の時刻に接近しすぎてもいけず、離れすぎてもいない時間を言うといい。おもてで争い事でもあったのかと思ったぐらいにするといい」

彼女はこちらの手にすがりついた。その手を、私はそっと撫でてやらなければならなかった。彼女の目が、そうしてくれとせがんでいた。

「きみはもう、彼にはうんざりしていた。彼が泥酔するのは毎度のことで、きょうはとりわけひどかった。だから、朝まで寝かせておこうと思った、と、そう言うといい。すると九官鳥が起きだして――」

「あら、キュウちゃんはいけないわ」歌うような声で、彼女はさえぎった。「九官鳥にそんな役を押し付けちゃ可愛そう」

とても効果的な一石になったかもしれないのだが、その一言でだめになった。私は部屋を出ることにした。

「肝心なのは、手を洗うことだ――赤むくれにならない程度にごしごしとね――そしてぼくは、ナイフを持っている。いいね?」

彼女はまたしても、動物的な、細い仕草でしがみついてきた。

「そのあとは――」夢みるような私の吐息が、彼女のひんやりとした唇に触れた。

自分の体をむりにもぎ放すと、私はその家を後にした。

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